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「傘も化て目のある月夜哉」

<与謝蕪村>新たに212句 天理大付属図書館入手の句集に

天理大付属天理図書館(奈良県天理市)は14日、入手した句集に、江戸時代を代表する俳人、与謝蕪村(よさ・ぶそん)(1716~83)の作で、知られていなかった212句が収録されていたと発表した。蕪村の句でこれまでに確認されていたのは約2900句で、専門家は「これだけまとまった新出句が判明したのは意義深い」としている。

同図書館によると、「夜半亭(やはんてい)蕪村句集」。蕪村門下の京都・寺村百池(ひゃくち)の家に伝わっていたとされる。1934(昭和9)年に雑誌「俳句研究」でその存在が紹介された後、行方が分からなかったが、同図書館が約4年前に書店から入手した。(毎日新聞)


国文学史を変えるような発見は、昭和14年の「廿巻本類聚歌合」が最後で、それ以上の発見は爾後ありえないだろうと考えているし、今回もその考えに変わりはないのだけれども、200句以上も見つかったのだから、蕪村研究においてはそれなりのインパクトはあるものと思う。

その道に造詣はまったく深くないけれども、タイトルに引用した句は、なかなか飄逸だな、と思う。

阿川弘之

作家の阿川弘之さんが死去 文化勲章受章者

「山本五十六」など文学性に満ちた戦争小説で知られる作家で、文化勲章受章者の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)さんが3日午後10時33分、老衰のため都内の病院で死去した。94歳だった。偲ぶ会を行うが日取りなどは未定。

 広島市生まれ。1942年に東京帝大(現東大)国文科を繰り上げ卒業後、予備学生として海軍に入隊。士官として通信諜報(ちょうほう)の任務につく。中国・漢口で終戦を迎え、帰国後は志賀直哉に師事して小説を執筆。自らの体験をもとに、海軍予備学生たちの青春を端正な筆致でつづった「春の城」(52年、読売文学賞)で作家としての地位を確立した。(日本経済新聞)


「第三の新人」の一人…と言っても、個人的には遠藤周作は読んだけれども、阿川弘之はほとんど読んだことがない。
けれども、当ブログにご来訪されている諸兄が阿川作品の読者かどうかは判らないけれども、そうでなかったとしても、『きかんしゃやえもん』の作者だと言えば、知らない人はいないだろうと思う。
まったく知らなかったのだが、無類の鉄道マニアだったんだとか。

ところで、昔々、遠藤周作とごく親しかった方から伺った話。
園遊会か何か、阿川が遠藤と一緒に出席した時のこと、当時の皇太子殿下(現天皇陛下)に声を掛けられて、遠藤が「はあ、はあ」と適当に答えていると、阿川に、「『はあ』とは何事だ、『はい』と言え」と怒られて、仕方なく「はい、はい」に答えを切り替えた。
その後阿川が酔っ払ってしまって、次に皇太子殿下が回って来た時には、「皇太子さんよう!」と言って肩を叩いたのを見て遠藤が唖然とした、という。
もっとも、遠藤の話の又聞きのうろ覚えだから、脚色や記憶違いがあるだろうとは思う。だからこれを、根拠ある出典として何事かに使用すること勿れ。

漱石山房

漱石邸?基礎石見つかる 新宿の「記念館」予定地 開館延期し本格調査へ

作家、夏目漱石(1867-1916年)の初の本格的記念館となる「漱石山房」記念館(仮称)の平成29年2月の開館予定が延期されることになった。新宿区の指定史跡「夏目漱石終焉(しゅうえん)の地」内の建設予定地(同区早稲田南町)で、「漱石山房」と呼ばれた漱石邸か、後に遺族が改修した建物のものとみられる基礎石が発見されたためだ。同区は週明けにも本格調査に着手する。

基礎石が見つかったのは、建設予定地の区営早稲田南町第3アパート敷地内の北西部分。記念館の工事に先立ち、同区は区埋蔵文化財取扱要綱の規定に基づいて4月下旬に試掘調査を実施し、基礎石の一部を発見。区営アパート住民の移転が済んだ6月中旬の調査で、地下約30センチのところに、長さ約90センチ、幅約20センチの基礎石5基をみつけた。(産経ニュース)


開館予定だった平成29年は漱石生誕150周年の年だったから、是非ともそこで…という気持もあるだろうけれども、「漱石山房記念館」を建てるために漱石旧居の遺構を軽視するするわけにも行かないから、致し方ないところだろう。
もしかしたら、記念館の目玉展示品のひとつになるかもしれないわけだし…。

ボックス・シートふたたび

先日、志賀直哉の作品に出て来る東海道線のボックス・シートについて書いたが、今度は漱石の『三四郎』。引用は例によって新書版全集による。

車が動き出して二分も立つたらうと思ふ頃例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行つた。此時女の帯の帯の色が始めて三四郎の眼に這入つた。(中略)
女はやがて帰つて来た。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもう仕舞掛である。下を向いて一生懸命に箸を突ツ込んで二口三口頬張つたが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を挙げて見ると矢張正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を挙げると同時に女は動き出した。只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体を横へ向けて、窓からクビを出して、静に外を眺め出した。(一、P7)


女は「三四郎の横を通」ることができたのだから、三四郎は進行方向に対して水平に坐っていたのである。
帰って来た女の「正面が見えた」というのも、座席が客室の出口方向を向いていることを前提としている。
この後、先日取り上げた、有名な弁当の折を窓から投げる場面がある。そこから考えると、三四郎は逆進行方向を向いて坐っていたことになる。

ほかの箇所にも、ボックス・シートであることの判る箇所がある。

やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首を出した。女はとくの昔に何処かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼に着いた。三四郎は又そつと自分の席に帰つた。乗合は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない。只筋向ふに坐つた男が、自分の席に帰る三四郎を一寸見た。(一、P12)


「筋向ふに坐」っている人がいるということは、すなわちボックス・シートである。

なお、三四郎の乗ったのも、志賀の作品のそれと同じく東海道線の三等客車である。

大したことはないのだけれども、気になったついでに書き留めておいた。

ボックス・シート

以前、芥川龍之介の「蜜柑」に出て来る横須賀線の客車がロング・シートだったことを書いたことがあるが、これは逆にボックス・シートの事例。
なお、「蜜柑」は横須賀線の二等客車、こちらは東海道線の三等客車である。

志賀直哉の「ある一頁」より。明治44年(1934)に発表された作品。

汽車が新橋を離れると、客車の隅に居た高等学校生徒と、彼と、其他僅の人を除いて大概の客は皆寝支度にかかつた。彼はこれを夜汽車に乗つたと云ふ観念に捕はれてする所作だと解して居た。然し、暫くして、それは新しく乗つて来る客に対する用意であると心づいた。国府津へ来て、起きてゐた彼は果して半席人に譲らねばならなかつた。(新書版『志賀直哉全集/第一巻』P109〜110)


「半席」というだけでも、おおよそ座席の形状は想像できようけれども、この直後の描写から、ただのクロス・シートではなく、ボックス・シートであったことが判る。

車中の人々は段々と眠つて了つた。彼と背中合せにゐた、商用で大阪へ行くと云ふ六十近い油切つた洋服の男と、十四年前に東京へ出て、浅草の常磐の料理人をして居たと云ふ三十四五の男だけが寝ながらカナリ晩くまで大きい声で話して居た。


「背中合せ」になったのは集団離反式のクロス・シートの中央部の座席だった可能性もある、などというのはヘリクツで、常識的に言えばボックス・シートだったと考えるのが妥当だろう。

それにしても、自分の隣に誰かに坐られないために2人掛けの席に横になってしまうのは、現代の感覚ではいかがなものかという気がするけれども、従前にはそれがふつうだったのだろう。「半席」という言い方も、本来は一人で専有すべきもののようなニュアンスがある。
時代によって、物の考え方、感じ方は変わるものである。「蜜柑」の主人公は煙草を吸っているけれども、ロング・シートの客車に灰皿が設置されていたとも思われない。三四郎だって当り前のように窓から弁当の折を投げ捨てているわけだし…。

狛犬と文学(その1・芥川龍之介の『妖婆』)

芥川龍之介に、『妖婆』という小説がある。
婆娑羅の大神の力を借りて加持や占いをしているお島という老婆から、出版書肆の若主人新蔵が恋人お敏を救い出そうとする話である。
それほど有名ではないかもしれないけれども、やや怪談じみた内容で面白いものなので、芥川文学の一面として、読んでみて損はないと思うのだが、のみならず、これはコマイニストとしても見逃すことのできない作品である。

以下、作品の本文を引用する。新書版芥川全集のページ数を併記するけれども、こんな一般性のない本のページ数を記載するのは、あくまでも僕の便宜のためで、読者諸兄のためのものではない。その旨、悪しからずご了承いただきたい。

重ね重ねの怪しい蝶の振舞に、新蔵もさすがに怖気がさして、悪く石河岸なぞへ行つて立つてゐたら、身でも投げたくなりはしないかと、二の足を踏む気さへ起つたと云ひます。が、それだけ又心配なのは、今夜逢ひに来るお敏の身の上ですから、新蔵はすぐに心をとり直すと、もう黄昏の人影が蝙蝠のやうにちらほらする回向院前の往来を、側目もふらずまつすぐに、約束の場所へ駈けつけました。所が駈けつけるともう一度、御影の狛犬が並んでゐる河岸の空からふはりと来て、青光りのする翅と翅とがもつれ合つたと思ふ間もなく、蝶は二羽とも風になぐれて、まだ薄明りの残つてゐる電柱の根元で消えたさうです。(P220)

その内にもう二人は、約束の石河岸の前へ来かかりましたが、お敏は薄暗がりにつくばつてゐる御影の狛犬へ眼をやると、ほつと安心したやうな吐息をついて、その下をだらだらと川の方へ下りて行くと、根府川石が何本も、船から挙げた儘寝かしてある――其処まで来て、やつと立止つたさうです。恐る恐るその後から、石河岸の中へはいつた新蔵は、例の狛犬の陰になつて、往来の人目にかからないのを幸、夕じめりの根府川石の上へ、無造作に腰を下しながら、「私の命にかかはるの、恐ろしい目に遇ふのつて、一体どうしたと云ふ訣なんだい。」と、又さつきの返事を促しました。(P221-222)

お敏は頬の涙の痕をそつと濡手拭で拭きながら、無言の儘悲しさうに頷きましたが、さて悄々根府川石から立上つて、これも萎れ切つた新蔵と一しよに、あの御影の狛犬の下を寂しい往来へ出ようとすると、急に又涙がこみ上げて来たのでせう。夜目にも美しい襟足を見せて、せつなさうにうつむきながら、「ああ、いつそ私は死んでしまひたい。」と、もう一度かすかにかう云ひました。(P227)

あの石河岸の前へ来るまでは、三人とも云ひ合はせたやうに眼を伏せて、見る間に土砂降りになつて来た雨も気がつかないらしく、無言で歩き続けました。
その内に御影の狛犬が向ひ合つてゐる所まで来ると、やつと泰さんが顔を挙げて、「此処が一番安全だつて云ふから、雨やみ旁々この中で休んで行かう。」と、二人の方を振り返りました。(P243)


場面の点景として狛犬が登場する作品は多々あるだろうけれども、ここまで狛犬が活躍する…と言っても、もちろん狛犬自体は何もしないけれども…作品も、珍しいのではないかと思う。
なおかつ、お島が誰かを呪い殺したような場合、当の現場にはお島の力が及ばないという設定になっているのだが、この狛犬の建っている場所は、まさにそういう場所で、新蔵とお敏、それを手助けする泰さんがお島に気づかれずに会うことができるのが、この石河岸の狛犬の許に限られるという、作品展開の上で欠かせない重要な地点になっているのである。
それで、以前にも、どこの狛犬なのかと思って「石河岸」を調べようと思ったことがあるのだけれども、その辺りと思しいところに、現代の地図にはその地名はないし、僕の持っている範囲の古地図にも見られないから、そのままになっていた。

今回芥川全集を読み返している際に、この狛犬がどこに建っているものか、もう少し詳しい情報が書かれているのに気がついた。しかも、こんなことを見落としているのに呆れるくらいかなりはっきりと。
それで、何だあそこだったのか、と思い当たったので、書いている。

そこでその日も母親が、本所界隈の小売店を見廻らせると云ふのは口実で、実は気晴らしに遊んで来いと云はないばかり、紙入の中には小遣ひの紙幣まで入れてくれましたから、丁度東両国に幼馴染があるのを幸、その泰さんと云ふのを引張り出して、久しぶりに近所の与兵衛鮨へ、一杯やりに行つたのです。
かう云ふ事情がありましたから、お島婆さんの所へ行くと云つても、新蔵のほろ酔の腹の底には、何処か真剣な所があつたのでせう。一つ目の橋の袂を左へ切れて、人通りの少い堅川河岸を二つ目の方へ一町ばかり行くと、左官屋と荒物屋との間に挟まつて、竹格子の窓のついた、煤だらけの格子戸造りが一軒ある――それが神下しの婆の家だと聴いた聞いた時には、まるでお敏と自分との運命が、この怪しいお島婆さんの言葉一つできまりさうな、不気味な心もちが先に立つて、さつきの酒の酔なぞは、すつかりもう醒めてしまつたさうです。(P210)


「竪川河岸」というのも明確には判らない…固有の地名ではなくて、単純に、竪川沿いの河岸、ということなのかもしれない…のだが、「一つ目の橋の袂を左へ切れて…二つ目の方へ一町ばかり」というのは明確である。
「一つ目の橋の袂」とか「二つ目」とか、土地に馴染のない方には何の1つ目だか2つ目だか判らないかもしれないけれども、これは隅田川から数えて1つ目、2つ目、ということで、地元民ならすぐに判る表現である。
2つ目は現在の「清澄通り」だが、1つ目は「一の橋通り」として、3つ目と四つ目はそのまま「三つ目通り」「四つ目通り」として現存する。
竪川を渡るために、1つ目の通りには一之橋が、2つ目の通りには二之橋が掛かる。同様に、五之橋までが現存する。
これらの通りは南北に通じているから、「一つ目の橋の袂を左へ切れて、…二つ目の方へ」行くためには、北から南へ橋を渡っているということになる。そこを東側に進んだ辺りだから、現在の墨田区千歳に当たる。

現在の一之橋。

堅川河岸

一之橋の南詰から東方を臨む。

堅川河岸

お島の家は「一つ目の橋」から竪川沿いに「一町ばかり」行ったところだが、それより少し手前、民家と民家の間のスペースを入って行くと神社がある。

堅川河岸 江島杉山神社

この神社には何度も行ったことがあって、当ブログでも1度ならず2度までも取り上げたことのある、江島杉山神社である。
これまでは南側と西側からしか出入りしたことがなかったので竪川沿いに建っているという意識がなかったのだけれども、ここがまさに『妖婆』に描かれている神社である。

では、芥川の書いた狛犬は…ということである。
これも既に取り上げたことがあるわけであるが、上の写真でも判るように、鳥居の内側に一対の狛犬がいる。
ただしこれが芥川の書いた狛犬でないことは、コマイニスト諸兄には自明だろう。
『妖婆』の書かれたのは大正8年(1919)だが、この狛犬はその頃に作られていたタイプではないからで、台座を見ると昭和30年(1955)とある。
で、芥川の書いた狛犬がどうなったのかというと、恐らくこれではないかと思われるものが残されている。残念ながら1対ではなく、境内の末社・杉多稲荷神社の鳥居の脇に1体だけひっそりと置かれているものである。

江島杉山神社 江島杉山神社

折角なので、改めてもう少し紹介しておく。

江島杉山神社 江島杉山神社 江島杉山神社
江島杉山神社 江島杉山神社

このあたりは東京大空襲で大きな被害を受けた地域だから、もしかしたらもう1体はその際に失われてしまったのかもしれない。
だいぶ古くなっているし、石に対する造詣もないから、これが間違いなく「御影の狛犬」かと言われると自信はないけれども、大正以前のものであることは間違いないと思われる。
すなわちこれが、芥川の書いた狛犬である…のだと思う。

なお、この神社は墨田区千歳1丁目にあるのだが、すぐお隣り同2丁目、やはり竪川沿いに石材店があるようである。
昔からあるのかどうかは判らないけれども、もしそうだとすると、石屋がある河岸だから「石河岸」と言った可能性も、ないわけではない。「夕じめりの根府川石の上へ、無造作に腰を下しながら」等の描写からすれば、付近の河岸が石材置き場になっていたのかもしれない。

(SONY NEX-6 + E PZ 16-50mm F3.5-5.6 OSS & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4)


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『当世もののけ生態学』

最近、どうも妖怪に取り憑かれているらしい人をちらほら見かけるので、思い出して取り出して来た本。

別役実『当世もののけ生態学』

当世もののけ生態学

残念ながら絶版だが、現在では『もののけづくし』として文庫化されているようだ。文庫化に当って改訂があったかどうかは判らない。

さて、本書の内容だが、刊行当時に書かれた紹介文に尽きていると思われるので、それを転載して責を塞ぐことにする。

近代科学においていかがわしいものとして無視されてきた妖怪変化を、近代科学就中生物学の中に位置付けて体系的に研究する「もののけ生態学」の草分けであり泰斗である著者の最新の著作である。
序文において示される、近代科学が反妖怪変化的である立場を取らなければならなかったのが錬金術などから発展した近代科学の生い立ちに起因するとする論述は、多大な説得力を持つ。また、近代科学が妖怪変化的なものを切り捨てたままにしておくことによって、かつて妖怪変化のたぐいが近代科学によって排除されたように、今度は近代科学がいかがわしいものとして排除されてしまいかねないという警鐘も傾聴に値する。
本書には29種の「もののけ」が取り上げられ、その生態が詳細に記述されている。一般には知られていないものや、知られていてもそれが「もののけ」とは認知されていないものも少なからず含まれており、読者の裨益するところ甚だ大と言えよう。
さらに、知名度の高い「もののけ」についても、誤解され易いところが詳細にかつ理解しやすく説明されている。
一例を上げれば、冒頭に取り上げられている「ろくろっくび」である。言うまでもなく首が伸びることで知られる妖怪だが、見顕屋(みあらわしや)の「ややっ、首が伸びたぞ。さてはろくろっくびだな」という台詞における「さては」に著目して、首が伸びたことが即ろくろっくびだと断定する根拠にはならないことを、現在の妖怪学における「見顕学」を絡めて解説している。浅学の筆者は、「見顕学」というものがあることを本書で初めて教えられたのだが、これも著者の深い造詣を以てして成しえた考察だと言えるだろう。
その外、当連盟の指定する天然記念物怪3種も一章を宛てて取り上げられており、「もののけ」の現状を知るに最適の書であること、疑いの余地はない。
「もののけ」に興味のある人はもとよりのこととして、「もののけ」が非科学的な迷信だと誤解している諸氏に、特に強く本書をお勧めしたい。


IUCY(国際妖怪保護連盟)の『会誌』(1994年1月号)に掲載された匿名氏によるものである。

訃報・小町谷照彦

東京学芸大名誉教授、小町谷照彦さん死去

小町谷照彦さん(こまちや・てるひこ=東京学芸大名誉教授)が10月31日、胃がんで死去、78歳。通夜は5日午後6時、葬儀は6日午前10時から東京都八王子市元横山町2の14の19のこすもす斎場第1式場で。喪主は妻新子(しんこ)さん。
専門は平安時代の文学。著書に「源氏物語の歌ことば表現」「古今和歌集と歌ことば表現」など。


僕は散文型人間で、和歌はとんと苦手なのだけれども、学生時代にはそうも言ってはいられず少しは勉強をした。
当時旺文社から出ていた文庫版『古今和歌集』が、実に良い教科書になった。限られたスペースの中に、修辞の説明や必要な注が凝縮されていた。僕がそれをどれだけ吸収できたかはすこぶる疑問だが、歌集を初めから終いまで読み通したのはこれが最初で最後である。
その『古今和歌集』の訳注者が小町谷氏である。それ以上の関係はないのだけれども、僕にっては思い入れのある方だと、言えないこともない。

最古級平仮名

意味が分からなかった土器片の「最古級平仮名」 実は…

土器片

平安京にあった貴族、藤原良相(よしみ)邸宅跡(京都市中京区)で平成23年に出土した土師(はじ)器の土器片(9世紀後半)に記されていた最古級平仮名は、最初の勅撰和歌集「古今和歌集」にある「幾世しも」の歌-とする新説を、南條佳代佛教大講師(日本書道史)が、同大学の紀要に発表した。

 土師器には、平仮名が約40字書かれているが、意味が分かっていなかった。京都市埋蔵文化財研究所の記者会見資料などでは、中心部の文字は「いくよしみすらキれ□□ち」とされていた。(□は欠字など)

(msn産経ニュース)


備忘のために、残しておく。

訃報・山中裕博士

平安時代の古記録と歴史物語の研究の第一人者、草分け的存在である山中裕先生が逝去された。

山中裕氏(元東京大学史料編纂所教授、平安時代史)が死去
山中裕氏 93歳(やまなか・ゆたか=元東京大学史料編纂所教授、平安時代史)13日、肺炎で死去。告別式は16日正午、横浜市金沢区六浦2の2の12上行寺八景斎場。喪主はめいの夫、牧野和夫氏。(読売新聞)


先生のご研究がなければ、栄花物語も大鏡も、今ほどメジャーな作品と認められることはなかったのに違いない。文学研究に古記録を導入したのも先生だったろうし、そもそも先生の古記録研究がなければ、史学専攻以外の人が、古記録を読みこなすことは、難しかったのではないかと思う。

以前、称名寺近くの先生のお宅で、古記録を読む研究会を開催していただいていて、小津安二郎の映画に出て来そうな雰囲気のお宅にしばしばお伺いしていたのだが、先生が体調を崩されてから休会状態になってしまっていた。
3年ほど前、産経新聞に載っていた『北朝鮮に消えた歌声―永田絃次郎の生涯』の紹介記事を見掛けて切り抜きをお送りした。
先生は、唱歌・童謡を含め、声楽にも造詣が深く、貴重なSP盤も随分お持ちのようだった。研究会の折にそういうお話を伺う機会も多々あって、一度、ご所蔵のSP盤を聴かせていただいたこともある。そういう折に、永田絃次郎の名前を出されたことがあったのを覚えていて、記事が目に止まったのである。
そのお礼のお電話を頂いたのが、先生とお話をした最後だった。
久しぶりで皆でまた来てほしいと言われたのだが、予定が合わずにそのままになってしまった。

思い出話はたくさんある気がするのだが、どうにも整理が付いていない。