FC2ブログ

断片(助動詞「なり」の識別)

古いメモ書きをそこはかとなく書き付ける。
そんなものは自分の中で温めていれば十分で、blogで公開する価値は皆無なのだけれども、10年以上も鞄の中に入りっぱなしのメモ書きが複数あるような為体だから、可視的な記録にしておかなければ思い出す機会もないだろう。
思い出さないようなのはそれまでのものということでもあろうけれども、とりあえず自分のためにだけ書き留めておく。そうしておけば、後で何かの役に立つかもしれない。むろん自分にだけ。

教科文法の常識、助動詞「なり」の識別。
終止形に接続するのは伝聞・推定、連体形に接続するのは断定である。
かの有名な土左日記の冒頭文の2例はどちらもサ変動詞「す」に接続しているから、「(す)なる」が伝聞推定、「(する)なり」が断定、と一目瞭然…に思ってしまうけれども、古代国語の動詞では、終止形と連体形が同形の四段活用が一番多いのだから、「(行く)なり」とか「(歌ふ)なり」とか、多くの場合には接続から判別することが不可能である。
判別できないものを判別の基準にするというのは、明らかに論理矛盾である。
例えば、「あなり」という表現がある。
「あなり」は動詞「あり」の撥音便「あん」に助動詞「なり」が付いたものだけれども、「ありなり」なら終止形接続だから伝聞・推定、「あるなり」なら連体形接続なら断定、ということになる。
それが撥音便で「あンなり」となり、表記としては「あなり」となるわけだけれども、これでは「あり」が終止形なのか連体形なのかが判らない。
「ありなり」とか「あるなり」とかであればどちらの意味かは判るけれども、「あなり」では判らない。意味が区別できなくなるように語形を変化させた、などということは、言語の運用上ありえない。
そもそも、どちらの意味だか判らないのなら、「なり」など付いていなくても同じである。
要は、接続で助動詞「なり」が識別できる、というのはまやかしだ、ということである。

考えてみたら、わざわざ「断片」と銘打たなくても、断片に過ぎないものは過去に幾らでもあった。でもまあいいか。
余談だが、googleさんは「ていたらく」を変換してくれなかった。本当は、それが書きたかっただけ。

コメントの投稿











管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
https://hoshinahouse.blog.fc2.com/tb.php/1368-d82411d9