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「『蜜柑』の謎あるいは横須賀線」補遺

かなり以前、「『蜜柑』の謎あるいは横須賀線」のエントリで、芥川龍之介の『蜜柑』に出て来る横須賀線の二等客車の座席がボックスシートではなくてロングシートだったことを書いて、文学作品を思い込みで読むのは禁物だということを述べた。

ここ暫く何度目かの芥川龍之介全集通読(途中)をしていて、これまで読み落としていたことがあるのに気づいた。
『蜜柑』なんて全集通読の時以外にも何度も読んでいるのに未だに気づきがあるのだから、何度読んでも面白い。
以下、引用は昭和29年発行の新書版全集第三巻による。

私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。(P95~96)


客車内にはほかに乗客がいないのに、「小娘」が「私」の「前の席」に坐るのは、ボックスシートならかなりおかしな状況ではあるものの、絶対にありえないことではない。横須賀線=ボックスシートという思い込みで読んでいたら、何とか屁理屈で辻褄を合せてしまうものである。
前のエントリで、「少女は汽車に乗り慣れていなくて不安だから、人のいる近くに坐ったのだ、と説明してくれた人がいたような気もする…」という書き方をしたけれども、これはその時ちょっと遠慮をしてそう言ったので、この説明をしてくれたのは、間違いなく中学校の時の国語の先生である。わざわざそんな説明をしてくれたくらいだから、その先生も、ボックスシートだと思って読んでいたのに違いない。

そして、「私」がボックスシートのどこに坐っていたかというと、通路側の座席である。それは、そう考えなければ、次の部分が説明できないからである。

それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けやうとしてゐる。(P97)


「私の隣」の座席で窓を開けようとしているのだから、そこが窓側なのは当然で、畢竟、「私」が坐っているのが通路側ということになる。

…のだけれども、実は、その直前にこんな描写があった。

この隧道の中の汽車とこの田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。(P96)


「私」は「窓枠に頭を靠せ」ていたのである。これは、ボックスシートでも、姿勢に多少の無理のある感はあるものの出来ないことはない。とはいえ、通路側の座席に坐っていたら、けっしてできないことである。「私」は窓側の座席に坐っているのでなければならない。
が、先の引用にある通り、「うつらうつら」していて「ふと」気づくと、「例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移し」ていたのである。その「私の隣」は、「私」が「うつらうつら」する前に坐っていたはずの窓側の座席である。「私」が夢遊病者でない限り、居眠りしている間に座席を移ることはできない。
さらに、「小娘」が座席を移ったことに、「私」は、「思はずあたりを見まは」して気づいたのである。ボックスシートのすぐ隣の座席に坐っていたとしたら、「あたりを見まは」すまでもなく気づくはずである。ロングシートの同じ側、しかも「隣」とはいえボックスシートの隣の座席ほど密着した位置関係ではないところだったから、「あたりを見まは」して気づいたのだろう。

要するに、横須賀線の「二等客車」がボックスシートでなかったことは、きちんと本文を読んでいたら、絶対に誤解するはずがないほど明瞭なことなのである。
いろいろな外部資料から、この当時の客車がロングシートだったことは確認できるはずだけれども、それ以前の問題として、まず「本文を読む」ことが大切だ、という当り前の話をしたに過ぎない。

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