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「左師子右胡摩犬」

最近、知人に徒然草に登場する「獅子・狛犬」について話をする機会があり、ついでなので手許にある注釈書を一瞥した。
と言っても、専門外だから意外に持っていなかったのと、持っているはずだけれどもどこかに紛れて見つからないものがあり、僅かな資料のみ。

まずは徒然草。

丹波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の頃、聖海上人、その外も人数多誘ひて、
「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」
とて、具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信起こしたり。
御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、
「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深き故あらん」
と涙ぐみて、
「いかに殿ばら。殊勝のことはご覧じ咎めずや。無下なり」
と言へば、おのおの怪しみて、
「誠に他に異なりけり」
「都のつとに語らん」
など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、
「この御社の獅子の立てられやう、定めて習ひあることに侍らん。ちと承らばや」
と、言はれければ、
「そのことに候。さがなき童べどもの仕りける、奇怪に候ふことなり」
とて、さし寄りて、据ゑ直して往にければ、上人の感涙、いたづらになりにけり。(236段)



「獅子・狛犬」について。

今の狛犬。左右の狛犬のうち、左の口を開いた方が獅子。右の口を閉じた方が狛犬。(久保田淳『新日本古典文学大系』岩波書店)

獅子(左)とこま犬(右)を左右に並べておく。(川瀬一馬『講談社文庫』講談社)

木か石に彫った獅子と狛犬(高麗犬の義)の像。宮中で、御帳台の帳や几帳が風に吹きあがるのを防ぐための重しとして置き、装飾、または魔除とした。左獅子、右は狛犬。この方式が神社の拝殿にも適用されたのである。(安良岡康作『旺文社文庫』旺文社)

神社の社殿の前に置いてある獅子と狛犬の像。向って左側に獅子、右側に狛犬を置く。魔よけのためという。(木藤才蔵『新潮日本古典集成』新潮社)


コマイニストの常識としては、『新大系』の記述の仕方を借りれば、
「右の口を開いた方が獅子。左の口を閉じた方が狛犬」
なのは言うまでもないのだけれども、『新大系』以外は口の開閉については触れられていないものの、揃って右が狛犬、左が獅子としている。

これは、どうやら『禁秘抄』(1221)の記述を根拠としているらしい。
関根正直『訂正禁秘抄講義上』(六合館、1925)によれば、

「在帳前南北左獅子」(「清凉殿」)


とあり、同書36頁に図がある。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧した。
さらに、『新大系』の口の開閉については『類聚雑要抄』(1146)を参照しているようで、それには、

「但立師子形時者帳前南方帷末之表戸之左右之際相向立之左師子於色黄開口右胡摩犬於色白不開口在角」(巻四「帳事」)


とある。これも国立国会図書館デジタルコレクションに依る。
つまり、諸注の獅子・狛犬の左右の位置についての説明は、一応、根拠があるということである。

ただし、問題は、左右の記述の仕方がこれで注釈として適切か、ということである。
上記の諸注の記述を見ると、いつの時代からか、獅子と狛犬の位置が逆転してしまったように見えるだろう。
諸注にはそのことはまったく触れられていないけれども、徒然草の注釈者にとってみれば、徒然草に出て来る獅子・狛犬を説明できれば十分で、現在の狛犬の状況など知ったことではないだろうから、別段批判すべきことでもない。
が、やはりコマイニストとしては気になるところなので、ひと言物申しておく。

結論から言うと、獅子と狛犬の位置は逆転していないのである。
『禁秘抄』や『類聚雑要抄』の記述は、あくまでも帳内から見て、ということである。『訂正禁秘抄講義上』を見ても、そのような位置関係として図示されている。
現在においても、神社の社殿に向って、ではなく、社殿の側から見て、であれば、左が獅子、右が狛犬である。
が、神社に参拝する我々が獅子・狛犬の左右を考える場合、社殿に向っての左右を思い浮かべるのがふつうで、社殿の側から振り返った位置関係を考えることはまずないと思われる。
とすれば、獅子=左、狛犬=右、という故実書の記述をそのまま記載するのは、間違ってはいないとしても、注釈としては不親切なのではないか。
なお、『集成』の記述「向って左側に…」とあるのは、親切心から加えた説明だろうけれども、かえって誤りになってしまっている。少なくとも『禁秘抄』の図を見てはいないのだろう。
もっとも、ふつう、注釈書を作るのに、作品の読みにはほとんど影響しない獅子と狛犬の位置ごときでそこまで資料を調査したりはしない。親切心が仇になった、というだけのことである。

強いて言えば、宮中の置物としての獅子・狛犬が神社の獅子・狛犬とイコールかどうかは何とも言えないところではあるものの、現在の獅子・狛犬と矛盾するところはないから、『禁秘抄』や『類聚雑要抄』を資料として用いることに、問題はないと思われる。

さて、もう一つ気になった点。
旺文社文庫では、「背きて、後ろさまに立ちたりければ」に「背中を向け合って、後向きに立っていたので」、「据ゑ直して」に「向き合うように置きかえて」の訳を付けている。
「背きて、後ろさまに立ちたりければ」を、獅子と狛犬が背を向けて、反対方向を向いている、と解釈している。
本文を読んでいるだけであれば、「通常なら前を向いている(社殿に背を向けている)ものを、いたずらで後ろを向けられた(社殿の方を向けられた)」と取れないこともないのだけれども、明確にそのように解釈しているのは、『類聚雑要抄』の「相向立之」を根拠としているのかもしれない。
だとしたら、この注釈者は、ふつうならやらないような資料の博捜を、きちんとやっていたことになる。
本当にそうなのかどうかは知らんけど…。
[ 2018/10/04 14:41 ] 狛犬 薀蓄 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

『集成』はやっちまいましたなぁ。コマイニストならまず疑うところですが、人は普段狛犬を見てないですからね。歌合の左右もありますので、左右は気を使うところではあります。
旺文社文庫と同じ安良岡康作の角川全注釈では、『禁秘抄』と『類聚雑要抄』をそのまま引用しています。長いので引用を取っちゃったら、胡乱な文章になっちゃったということでしょうね。
[ 2018/10/05 02:46 ] [ 編集 ]

Re: 中川@やたナビ さん

まぁ、徒然草の読者でそんなところを気にする人はいないですからどうでも良いんですけどね。
ただ、ふつうの人が思い浮かべるような狛犬とは違うことは注記してあっても良いのでは? とは思います。そうじゃないと、童のやった狛犬の向きを変える行為はいたずらじゃ済まされないレベルの大掛かりな悪事ですし、それをいとも簡単に元に戻してしまう神官も信じられないほどの怪力の持ち主だということになってしまいかねません。
[ 2018/10/05 09:25 ] [ 編集 ]

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