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附箋を剥がす 『銭形平次捕物控傑作選3』

これまで附箋を剥がすの通し番号を振っていたのだが、そもそもさして正確でもなし便利でもなし、面倒なので止めにする。

野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選3 八五郎子守唄』(文春文庫)より。

約束の年季を一年も過ぎ、古河の母からは矢の催促で、近ごろ年を取って、めっきり弱ったから、早く帰って顔を見せてくれと言われる度に、私は暇も金も下さらない主人を怨みました。とうとう我慢が出来なくなったのは、この出代り時の三月三日でございました」(「権八の罪」P24)


「出代り時」。「出替り時」とも書く。「出替り」は、奉公の年季が明けて交代すること。これは注記があった方が親切だろう。

こんな稼業の人間らしくもなく、少し頑固(かたくな)らしく見えるほど、実体な男です。(「二つの刺青」P89)


「かたくな」は悪い意味で使われることが多いように思うけれども、この「かたくな」は、マイナス表現ではない。

娘手品の親方は近江金十郎という五十男で、仲間では顔の通った方ですが、それよりも女房のお角は、名前の通り四角な顔と、恐ろしい勢いでまくしたてる塩辛声とで、東西両国の香具師仲間でも、一番煙たがられている四十女でした。(「二つの刺青」P91)


これまでも何度か取り上げている「両国」の事例。ほかにも、

――伊之助の父親の伊兵衛は、人並みすぐれた頑固者で、両国の手品の娘などを、跡取り息子の嫁にすることなどは、絶対に考えられないこと、――でも二人はどうしても別れられないこと――。(「二つの刺青」P96)

「大きな結改場というと、両国、浅草、深川の八幡様裏、神田明神様――はツイ鼻の先だし、あ、ありますよ、白山前の結改場、あの後ろの白山神社は、明暦の大火でそのままになっていたのを、今度公儀で御造営することになり、加藤遠江守様の御係りで、講義から金が五百両、檜五千本の寄付があり、今は造営の真っ最中」。(「八五郎子守唄」P207)

「どういたしまして、言い交わすところまでは行かなかったんで、――六年前の岡惚れ一人、両国の結改場で鳴らした、お半でしたよ」(「八五郎子守唄」P208)


など。ただ「両国」といった場合は、今の墨田区両国ではなく隅田川西岸を指している。

お玉の替玉を殺し、お関を危うくし、さらにお豊婆さんを殺した曲者は、いったい何を企み、何を仕出かそうとするのか。その見当も付かず、全く手を拱(こまぬ)いて、次に相手の討つ術を待っているほかはなかったのです。(「二つの刺青」(P99-100)


「こまぬく」の事例。

宇三郎は三杯家の跡取りがなくなると、昔の自分の差金で捨てさせた三杯家の娘を探させたのさ。娘手品師になっていると直ぐわかったが、お関とお玉が同じように綺麗で、ちょっと見当が付かない。そこで先ずなんとなく上品で美しいお玉に当たってみると、こいつはとんだ大伴の黒主で、すぐ宇三郎に喰い下がって、年の違いも忘れて妙な仲になってしまった。(「二つの刺青」P104)


「大伴の黒主」について、この書の注には以下のようにある。

平安時代前期の歌人。生没年不詳。六歌仙の一人に数えられる。猿丸太夫の子とも大友皇子の子孫ともいわれるが、信憑性は低い。説話等で小悪人として描かれることもある。(P247)


間違ってはいないのだが、この場面の注としては無駄だろう。『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』を出さなかったら、何のことだかさっぱり判らない。
なお、「しんぴょうせい」を変換したら、「信ぴょう性」が最初に出て来た。そんな変換、止めてくれ。

平次の問いは妙な方へ発展して行きます。それをうさんに見守る三輪の万七に平次はそっと囁きました。(「死の秘薬」P184)


「うさん」の事例。

「楊弓場の女だよ。矢取女にはずいぶん良い娘がいるから」
「それなら、知ってるのは五人や三人はありますが」
「言い交したのはなかったのか」
「お生憎で。ヘッ。吉原の太夫には、言い交したのが二、三人あるが、結改場(楊弓場)の矢取女じゃ、色男の方が役不足で」(「八五郎子守唄」P205)


ちょっと難しい「役不足」の事例。これについては改めて書く…かもしれない。昭和29年(1954)の作品。

古い本を調べますとね、乞食の犯罪、貧乏人の犯罪などはあまり罰されていない。高位高官のものの汚職の罪。こういうのは、死刑を課したものでした。(「『胡堂百話』より」P231)


「罰されて」。今なら普通は「罰せられて」か。

話が、またしても、古くなるが、明治十七年頃の新聞を見ると、「日本橋区××町に、××という米屋さんがござります。その米屋さんに昨日の朝……」といった調子で、社会面のニュースが書いてある。話す言葉と書く言葉の、これこそ完全な一致である。
ところがその後、美妙斎あたりが音頭を取って、原文一致運動が起こり、いわゆる口語体が生まれた。この口語体というのは、名前は言文一致でも、その実、日常の会話と異なり、口語体という一つの文章体なのだ。論より証拠、本当に話す口調で書いているのは、漫画の本か、童話くらいしかないではないか。(「『胡堂百話』より」P237)


胡堂の文章についての一家言。国語学のテキストには(ぼくの勉強不足もあるだろうが)見掛けない見解だけれども、成程、と思わせるものはある。

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