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附箋を剥がす(その37)『銭形平次捕物控傑作選2』

野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選2』(文春文庫)より。

親分の銭形平次の名代で、東両国の伊勢辰で鱈腹飲んだ参会の帰り途、左手に折詰をブラ下げて、右手の爪楊子で高々と歯をせせりながら、鼻唄か何か唄いながら、両国橋へ差しかかったのは真夜中近い刻限でした。(「身投げする女」P7)


前回も取り上げた「両国」。平次の頃は隅田川の西岸が両国で、東岸を「東両国」と言った、その事例。
関連する事例として、下記のものもある。

赤い御神籤を取った怪しの男をつけて行くと、駒形から、お蔵前を、両国へ出て、本所へ渡って、深川へ廻って、永代を渡って築地へ抜けて、日本橋から神田へ、九段を登って、牛込へ出て、本郷から湯島へ来ると、日はトップリ暮れたというのです。(「第廿七吉」P232~233)


土地勘のある人には自明だけれども、東岸と西岸との往来の場合には、「渡って」と記されている。

「でも、私は親のない子で、叔父さん叔母さんに藁のうちから育てられました。この暮れのくり廻しが付かないから、吉原へ身を売れと言われると、いやとは申されません」(「身投げする女」P10)


「ラ抜き」ならぬ「a-r抜き」の事例。

鳥越の平助店は、袋小路の別世界を形成した、総後架の前の四軒長屋でした。(「身投げする女」P17)


「後架」は知っていても、「総後架」という言葉は知らなかった。長屋の共同便所のことだそうだ。

樫谷三七郎は舌鼓でも打ちたい様子でした。極度に掛り合いを恐れたその当時の群衆は、よしや、眼の前で人殺しがあったところで、黙って見て、黙って引揚げてしまったことでしょう。(「花見の仇討」P48)


「舌鼓」は現在ではもっぱら御馳走を食べた時に使われるけれども、こういう使い方もあったんだな。

しばらく間をおいて、佐野屋へ入った平次。
「今ここへお滝が入ったようだが――」
うさんな眼を店中に配りました。(「花見の仇討」P61)


「うさんくさい」は良く聴くけれども、「うさん」単独で使われることは、現在ではあまりないのではないか。「くさい」は「…の様子だ」ということを表わす接尾語だから、元々は単独で使われていても不思議ではない。

平次は豁然としました。一切の不可能を取払った後に残るものは、それがいちおう不可能に見えても、可能でなければなりません。(「花見の仇討」P68)


シャーロック・ホームズっぽいな、と思って抽いておく。むろんのこと胡堂はドイルの愛読者である。

八五郎はヒラリと身をひるがえすと、怪しの男が平内様の堂を離れるのと一緒でした。二人は仲見世の人混みの中を縫って、雷門の方へ泳いで行くのを、平次は何か覚束ない心持で見送っております。(「第廿七吉」P231)


「二人は仲見世の人混みの中を縫って、雷門の方へ泳いで行く」と「雷門の方へ泳いで行くのを、…見送っております」という二つの文が叙述観点の転換によって一文で表現されている。

一と昔前は、青酸加里と明記することさえ禁じられた時代がある。その頃の小説はいかに間の抜けたものだったか私が改めて書くまでもあるまい。小説にまたは新聞に青酸加里という文字を使わなかったところで、青酸加里の自殺や犯罪は減ったわけではなく、丑刻参りが唯一の殺人方法であったわけではない、随分可笑しな話である。(「銭形平次打明け話」P281)


表現の規制についての、さすが適切な意見。

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