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附箋を剥がす(34)

引き続き、幸田文『ふるさと隅田川』(ちくま文庫)より。

いまは専門にぞつき本を捌く処ができてゐるけれど、むかしはどうったのか。第一、いま云ふぞつきと同じ性質のものが同じ数量で、むかしもやはり出てゐたかどうか。本屋さんとは切つても切れない関係の、もの書きの子に育ちながら、気が働かないといふのはしかたがないもので、単行本にしろ雑誌にしろ古い本のことにしろ、まるで知らないで過ぎてきた。(「船内屋さん」P76)


「ぞっき本」ということばは、知らなかった。僕が学生の頃は、「B本」などと言っていた。今でいう「自由価格本」もその一種なのだろう。それらに比べて、そこはかとない風情がある。

こんなのもある。釣好きが夜釣をかけてゐると、河心を行く船があつて、艫には島田の女がすわつてゐるが、非常な美人なのでつい気を取られたら、不意にばたゝゝがしやゝゝとそこいらぢゆうが大騒ぎになつて、板子の下に活けてあつた魚はみな取られてしまつた、などといふたぐひである。(「あだな」P91)


再び、「河心」の例。

いままで何でもないことだつたものが急になぜだらうになつて、胸の途中にものが閊へたやうな気もちのまゝ、明けて行く河面を見てゐる新さんへ、なかまが集まつてきて乗合の楽しさが例の通りにひろげられて行つた。そしてやがて、おるいの「いつてらつしやいまし」に送られて乗りだして行つた。(「あだな」P99)


「『いつてらつしやいまし』という声に見送られて」あるいは「『いつてらつしやいまし』の声に見送られて」などというのがふつうの引用の仕方だろうが、そうではなくて、「『いつてらつしやいまし』見送られて」。文体の融合の事例。

けれどもおるいもさて新さんを呼んでみれば、さうしやきゝゝものを云つたのではなくて、やはり涙のはうが大部分で新さんをはらゝゝさせ、――自分がゐなくなつても何も心配なことはないが、たゞ夜のひきあげどきだけがなんとも気になつて、それを考へると死にたくないし、心配でゝゝどうしてみやうもない、ひとに頼んだつてそのことだけはどうにもならないけれどよろしく頼む、と云ふ。(「あだな」P103)


「夜のひきあげどき」ということばも、聞いたことがなかったのでメモしておいた。

おるいのことはおるいのことで、いつまでたつてもおるいのことなのだし、今日の生活は今日の生活だし、あとの人はあとの人だし、こぐらかるまいとしてゐた。(「あだな」P106)


これもあまり見たことがなかったので。’Tangled up in blue'~「ブルーにこぐらかって」…いや、これはさすがに「こんがらがって」の方が良いな。

彼はほんたうに、うちへ帰つてうちの飯を食つた。凶暴に食つた。鬱憤は吐きだされずに逆に胃へ押しこまれた。炊いたばかりの御飯はみんなになつて空のお櫃に茶碗と醤油さしが突つこまれて醤油はこぼれてゐた。工場へ半年行つて親を離れてゐたあひだに、彼の血はたぎることをおぼえ、人間がかはつたやうだつた。(「あだな」P117)


3点。
1.「みんなになる」。意味は容易に判るけれども、実例にお目に掛ったのは、あるいは初めてかもしれない。
2.たぶん僕以外誰も気になることのない箇所。「空のお櫃に茶碗と醤油さしが突つこまれ醤油はこぼれてゐた」…「て」の前後、ふつうなら条件接続で繋ぎたくなるところ、列叙接続が使われている。
3.「たぎることをおぼえ」の主語は「彼の血」なのだから、続く部分の主語も「彼の血」であるのがふつうなのだろうけれども、「人間がかはつたやうだつた」の主語は「彼」である。「彼の血はたぎることをおぼえ(た。彼は)人間がかはつたやうだつた」。それを1文で表現している叙述観点の転換の事例。

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