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「『蜜柑』の謎あるいは横須賀線」補遺

かなり以前、「『蜜柑』の謎あるいは横須賀線」のエントリで、芥川龍之介の『蜜柑』に出て来る横須賀線の二等客車の座席がボックスシートではなくてロングシートだったことを書いて、文学作品を思い込みで読むのは禁物だということを述べた。

ここ暫く何度目かの芥川龍之介全集通読(途中)をしていて、これまで読み落としていたことがあるのに気づいた。
『蜜柑』なんて全集通読の時以外にも何度も読んでいるのに未だに気づきがあるのだから、何度読んでも面白い。
以下、引用は昭和29年発行の新書版全集第三巻による。

私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。(P95~96)


客車内にはほかに乗客がいないのに、「小娘」が「私」の「前の席」に坐るのは、ボックスシートならかなりおかしな状況ではあるものの、絶対にありえないことではない。横須賀線=ボックスシートという思い込みで読んでいたら、何とか屁理屈で辻褄を合せてしまうものである。
前のエントリで、「少女は汽車に乗り慣れていなくて不安だから、人のいる近くに坐ったのだ、と説明してくれた人がいたような気もする…」という書き方をしたけれども、これはその時ちょっと遠慮をしてそう言ったので、この説明をしてくれたのは、間違いなく中学校の時の国語の先生である。わざわざそんな説明をしてくれたくらいだから、その先生も、ボックスシートだと思って読んでいたのに違いない。

そして、「私」がボックスシートのどこに坐っていたかというと、通路側の座席である。それは、そう考えなければ、次の部分が説明できないからである。

それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けやうとしてゐる。(P97)


「私の隣」の座席で窓を開けようとしているのだから、そこが窓側なのは当然で、畢竟、「私」が坐っているのが通路側ということになる。

…のだけれども、実は、その直前にこんな描写があった。

この隧道の中の汽車とこの田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。(P96)


「私」は「窓枠に頭を靠せ」ていたのである。これは、ボックスシートでも、姿勢に多少の無理のある感はあるものの出来ないことはない。とはいえ、通路側の座席に坐っていたら、けっしてできないことである。「私」は窓側の座席に坐っているのでなければならない。
が、先の引用にある通り、「うつらうつら」していて「ふと」気づくと、「例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移し」ていたのである。その「私の隣」は、「私」が「うつらうつら」する前に坐っていたはずの窓側の座席である。「私」が夢遊病者でない限り、居眠りしている間に座席を移ることはできない。
さらに、「小娘」が座席を移ったことに、「私」は、「思はずあたりを見まは」して気づいたのである。ボックスシートのすぐ隣の座席に坐っていたとしたら、「あたりを見まは」すまでもなく気づくはずである。ロングシートの同じ側、しかも「隣」とはいえボックスシートの隣の座席ほど密着した位置関係ではないところだったから、「あたりを見まは」して気づいたのだろう。

要するに、横須賀線の「二等客車」がボックスシートでなかったことは、きちんと本文を読んでいたら、絶対に誤解するはずがないほど明瞭なことなのである。
いろいろな外部資料から、この当時の客車がロングシートだったことは確認できるはずだけれども、それ以前の問題として、まず「本文を読む」ことが大切だ、という当り前の話をしたに過ぎない。

縁結神社(栃木県日光市)

何ということもないのだけれども、こんなところに神社があったのか、という程度のことで上げておく。

縁結神社(栃木県日光市)。

縁結神社

最寄り駅は東武鬼怒川線の東武ワールドスクウェア駅。
そのワールドスクウェアの園内にある。

縁結神社

創建2016年だそうだから、出来立てほやほやの神社である。
だから、狛犬も出来立てほやほや。

縁結神社 縁結神社

まぁ、いつものやつではあるのだけれども、ここまでピカピカだと潔くて良い気がしなくもない。

縁結神社 縁結神社

それにしても、例祭ってこんなところで何をやるんだろう?

(SONY Cyber-shot DSC-RX100M3)
[ 2019/03/25 23:34 ] 狛犬 その他 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第2巻』)・その1

『芥川龍之介全集 第2巻』(岩波書店、昭和29年11月)の附箋を剥がす。

上人、「御主御受難の砌は、エルサレムにゐられたか」(「さまよへる猶太人」P11)


「ゐられた」がちょっとだけ気になったのでメモしておいた。

さうして又、第一の私と、同じ姿勢を装つて居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顔も亦、私と同じだつた事でございませう。私はその時の私の心もちを、何と形容していゝかわかりません。私の周囲には大ぜいの人間が、しつきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、昼のやうな光を放つて居ります。云はゞ私の前後左右には、神秘と両立し難い一切の条件が備つてゐたとでも申しませうか。(「二つの手紙」P20)


芥川には珍しくないけれども、東京弁「しつきりなし」。

これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日私は学校に居りますと、突然旧友の一人が訪ねて参りましたので、幸午後からは授業の時間もございませんから、一しよに学校を出て、駿河台下の或カツフエへ飯を食ひに参りました。駿河台下には、御承知の通りあの四つ辻の近くに、大時計が一つございます。私は電車を降りる時に、ふとその時計の針が、十二時十五分を指してゐたのに気がつきました。その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもつた、鉛のやうな空を後にして、ぢつと動かずにゐるのが、何となく恐しいやうな気がしたのでございます。(「二つの手紙」P22)


読む度に、駿河台下の大時計って何だろう、「御承知の通り」と言うくらいだから有名なんだろうと思いつつ、毎回読んだ端から忘れてしまって調べたことがない。今回軽く調べても判らないので、備忘のために書き留めておく。

所で、意思の有無と申す事は、存外不確なものではございますまいか。成程、妻はドツペルゲンゲルを現さうとは、意志しなかつたのに相違ございません。しかし、私の事は始終念頭にあつたでございませう。或は私とどこかへ一しよに行く事を、望んで居つたかも知れません。これが妻のやうな素質を持つてゐるものに、ドツペルゲンゲルの出現を意志したと、同じやうな結果を齎すと云ふ事は、考へられない事でございませうか。少くとも私はさうありさうな事だと存じます。(「二つの手紙」P27~28)


「意志しない」「意志する」が気になったためのメモ。

どうか私の申上げた事を御信じ下さい。さうして、残酷な世間の迫害に苦しんでゐる、私たち夫婦に御同情下さい。私の同僚の一人は故に大きな声を出して、新聞に出てゐる貫通事件を、私の前で喋々して聞かせました。私の先輩の一人は、私に手紙をよこして、妻の不品行を諷すると同時に、それとなく離婚を進めてくれました。それから又、私の教へてゐる学生は、私の講義を真面目に聴かなくなつたばかりでなく、私の教室の黒板に、私と妻とのカリカテゥアを描いて、その下に「めでたしめでたし」と書いて置きました。(「二つの手紙」P29)


「故に」は「ことさらに」。

或者は、無名のはがきをよこして、妻を禽獣に比しました。或者は、宅の黒塀へ学生以上の手腕を揮つて、如何はしい書と文句とを書きました。さうして更に大胆なる或者は、私の邸内へ忍びこんで、妻と私とが夕飯を認めてゐる所を、窺ひに参りました。閣下、これが人間らしい行でございませうか。(「二つの手紙」P29)


「夕飯を認める」が珍しかったので。

(一しよに大学を出た親しい友だちの一人に、或夏の午後京浜電車の中で遇つたら、こんな話を聞かせられた。)(P44)

(ここまで話すと、電車が品川へ来た。自分は新橋で降りる体である。それを知つてゐる友だちは、語り完らない事を虞れるやうに、時々眼を窓の外へ投げながら、稍慌しい口調で、話つづけた。)(P49)

(二人の乗つてゐた電車は、この時、薄暮の新橋停車場へ着いた。)(P50)


「京浜電車」っていうのは京急のことかな、と一瞬思ったのだけれども、その後の「品川」「新橋(停車場)」からすれば、今の東海道線(京浜東北線)のことなのだろう。

この間、社の用でYへ行つた時の話だ。向うで宴会を開いて、僕を招待(せうだい)してくれた事がある。何しろYの事だから、床の間には石版摺りの乃木大将の掛物がかゝつてゐて、その前に造花の牡丹が生けてあると云ふ体裁だがね。夕方から雨がふつたのと、人数(にんず)も割に少かつたのとで、思つたより感じがよかつた。(「片恋」P44)


「招待」と「人数」のルビ。

さう話がわかつてゐれば、大に心づよい。どうせこれもその愚作中の愚作だよ。何しろお徳の口吻を真似ると、『まあ私の片恋つて云ふやうなものなんだからね。精々そのつもりで、聞いてくれ給へ。(「片恋」P46)


異質的な文体の融合。会話文から地の文(会話文に引用された会話文から会話文)に融合する事例。

ざつと十年ぶりで、恋人にめぐり遇つたんだ。向うは写真だから、変らなからうが、こつちはお徳が福龍になつてゐる。さう思へば、可哀さうだよ。(「片恋」P48)


「福龍」が判らなかったのでメモしておいた。調べてもいないのでまだ判らない。

盧生は、ぢれつたさうに呂翁の語を聞いてゐたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、かう云つた。
「夢だから、猶行きたいのです。あの夢のさめたやうに、この夢もさめる時が来るでせう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云へる程生きたいのです。あなたはさう思ひませんか。」(「黄梁夢」P54)


読む度何となく気になる一節。

(続く)

「王城の北」―附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)・続2

『芥川龍之介全集 第1巻』に関して、もう1題。

その時、王城の北、朱雀大路のはづれにある、羅生門のほとりには、時ならない弦打ちの音が、さながら蝙蝠の羽音のやうに、互に呼びつ答へつして、或は一人、或は三人、或は五人、或は八人、怪しげな出立をしたものゝ姿が、次第に何処からか、つどつて来た。(「偸盗」P244)


ここが気になるのは僕に知識・常識が欠如しているからなのだろうか?
羅生門が「朱雀大路のはづれ」にあるのはその通りだけれども、「王城の北」が腑に落ちない。
「王城」は、『日本国語大辞典』によれば、

①帝王の住む城。皇居。内裏。②都。帝都。


である。
念のため第二版を見ても、

①帝王の住む城。皇居。内裏。②皇居のある所。都。帝都。


と、ほぼ同じ。
更に念のため、芥川を読む上で非常に有用な(と、僕が考えている)『大言海』(冨山房)。

王者ノ宮城。帝王ノ宮居。都(ミヤコ)。


説明が古風なだけで、書かれていることは同じである。

この場合の「王城」が「皇居。内裏」「宮城」を指すわけではもちろんないので、「都」が該当する。

「都」…平安京の北、「朱雀大路のはづれ」にあるのは門は朱雀門である。
羅生門(羅城門)も「朱雀大路のはづれ」にあるけれども、平安京の最南端に当たる。

この部分には諸書に特段の注記も見当たらないし、最新の全集でも「改む」などとして「王城の南」とされていたりはしない。
こんなところに疑問を持っているのは僕だけ?

いつも通り、結論は、ない。

指定の件数分だけupdateする

1本のupdate文で大量のレコードを更新する場合、全件を一括して更新すると時間も負荷も掛かってしまう。
それで、少しずつupdateしたいと思って、試しに

update top 1000 TBL set …


と書いてみたのだけれども、「'1000' 付近に不適切な構文があります。」というエラーが出て更新ができない。

それで、where句をselect文にしてその中にtop 1000を入れることも考えて、それはそれで可能なのだけれども、調べてみたらもっと簡単にできることが判った。

update top (1000) TBL set …


というふうに、件数を括弧で括るのみ。

ただし気を付けなければいけないのは、where句でset前の値を指定しておかないと、いつまで経っても最初の1000件だけが同じ値に只管上書かれ続けてしまうこと。
言わずもがなか…。

「犢もこれにくらべれば…」(その2)―附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)・続

犢もこれにくらべれば…」の続き。

「犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。」で間違いなさそうなのに、だらだらと書き連ねているのは以下の事情による。

僕が持っている『芥川龍之介全集』(岩波書店、昭和29年1月)には、書いた通り
「犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。」
とある。
ただ、岩波だけでも何度も全集を出しているので、図書館で見られる限り見てみた。

①『芥川龍之介全集 第二巻』角川書店 昭和43年1月
犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。

②『芥川龍之介全集 第一巻』筑摩書房 昭和46年3月
犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。

③『芥川龍之介全集 第一巻』岩波書店 1977年7月
犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、小さい事はあつても、大きい事はない。

④『芥川龍之介全集 第二巻』岩波書店 1995年12月
犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、小さい事はあつても、大きい事はない。


③④の本文が「小さい事はあつても、大きい事はない。」になっている。

岩波書店では、少なくとも1927年~、1934年~、1954年~、1977年~、1995年~の5回全集を出している。
僕の持っているのが1954年の新書版全集で、それは前に書いた通り「大きい事はあつても、小さい事はない。」になっているので、未確認ではあるけれどもそれ以前の全集は、それと同じだったろうと思われる。
1977年以降の全集③④で、本文が「小さい事はあつても、大きい事はない。」になっているのだけれども、それらの全集の「後記」には、底本に「大きい事はあつても、小さい事はない。」とあるとした上で、「改む。」と書かれている。
③の底本は1927年の、④の底本は1954年のものではないかと思われる。とすれば、それらの本文はいずれも「大きい事はあつても…」ということになる。
因みに、現行の岩波文庫(2002年10月改版)は、1995年版の全集を底本にしているから、「犢もこれにくらべれば、小さい事はあっても、大きい事はない。」とある。
これらから考えれば、芥川が書いた本文は、「大きい事はあつても…」で間違いない。

実は、馬上駿兵サンが『[文法]であじわう名文』を書いた時に、④の全集と新書版全集を見比べて、「小さい事はあつても、大きい事はない。」は誤植だと判断して「大きい事はあっても、小さい事はない。」の本文を採用した。論旨に支障はないとしても、軽慮だった憾みはある。

それはさておき、芥川自身は「偸盗」の出来が気に入らなかったらしく、生前に単行本に入れることがなかった。だから、「小さい事はあつても…」を「大きい事はあつても…」に書き直したりはしていない。
それが芥川の誤記だったのだとしても(そして恐らく誤記なのには違いないけれども)、没後に他人が書き換えるというのが正しいのかどうか、判断は難しい。
作家だって書き間違えることはあり、もし芥川が長生きして全集の編纂に関わったりしていたら自分で書き直していた可能性はある。そういう意味では芥川が意図していたであろう形に書き換えることは一概に誤りとも言い難い。
一方、誤りだったとしても芥川本人がそう書いたのだから、それこそが「正しい」本文だとする考え方にも、一理ある。

で、結局のところそれで何が言えるのかと言うと、現在、世上にある「偸盗」の本文には、ふた通りのものがある、というだけのことである。

「犢もこれにくらべれば…」―附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)・続

附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)」のエントリで、「もう少し気になったものもある」と書いた、その内の2つ、のうちの1つ。

が、相手の一人を殺し、一人を追払つた後で、犬だけなら、恐れる事もないと思つたのは、結局次郎の空だのみにすぎなかつた。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。それが皆、口のまはりを人間の血に濡らして、前に変らず彼の足下へ、左右から襲ひかゝつた。一頭の頤を蹴返すと、一頭が肩先へ踊りかゝる。それと同時に、一頭の牙が、すんでに太刀を持つた手を、噛まうとした。(「偸盗」P252)


問題は、「犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。」である。
犢(こうし)と比べられているのだから、もちろん大きいという表現ではあるのだけれども、犢よりは小さいと言っているのだから、何だか中途半端な感はある。
手許にあるちくま文庫版『芥川龍之介全集』を見ても同じである。この文庫版全集は筑摩類聚全集を底本としているから、それも同じなのだろう。
国立国会図書館のデジタル資料で唯一館外閲覧のできた昭和3年刊岩波文庫も同じ。
安直に青空文庫を検索して見ても本文は同じ…と思ったら、僕の持っている全集を底本としている岩波文庫(昭和35年刊)を底本としていたから当然ではある。
文庫本をほかに1~2冊持っていたはずだけれども、どこかにしまい込んでしまったものか見つからないので、自宅に居ながらにして確認できる範囲では、「大きい事はあつても、小さい事はない」なのに違いない。
何となくもやもやした思いは残るものの、芥川がそう書いたのならどうにも致し方がない。

(続く)

附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)・補遺

全集の第1巻を読み終わって第2巻に入ったのだけれども、本を開いたら前回読んだ時のメモが挟み込まれたままになっていた。
そのメモには、第1巻を読んだ時のものも含まれていたので、読む度に気になるところは変わるもんだな、と自分一人で面白かったので、それも転記しておく。

勿論、右の手では、赤く頬に膿を持つた大きな面皰を気にしながら、聞いてゐるのである。しかし、之を聞いてゐる中に、下人の心には、或勇気が生まれて来た。それは、さつき門の下で、この男には欠けてゐた勇気である。さうして、又さつきこの門の上へ上つて、この老婆を捕へた時の勇気とは、全然、反対な方向に動かうとする勇気である。下人は、飢死をするか盗人になるかに、迷わなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、飢死などと云ふ事は、殆、考へる事さへできない程、意識の外に追ひ出されてゐた。(「羅生門」P43)


この時には、「全然」ではなく「反対な」が気になったようだ。

酒虫と云ふ物が、どんな物だか、それが腹の中にゐなくなると、どうなるのだか、枕もとにある酒の瓶は、何にするつもりなのだか、それを知つてゐるのは、蛮僧の外に一人もない。かう云ふと、何も知らずに、炎天へ裸で出てゐる劉は、甚、迂闊なやうに思はれるが、普通の人間が、学校の教育などをうけるのも、実は大抵、これと同じやうな事をしてゐるのである。(「酒虫」P75)


だから何だ、ということもないのだけれども、何となく面白かった。

第三の答。酒虫は、劉の病でもなければ、劉の福でもない。劉は、昔から酒ばかり飲んでゐた。劉の一生から酒を除けば、後には、何も残らない。して見ると、劉は即酒虫、酒虫は即劉である。だから、劉が酒を去つたのは自ら己を殺したのも同然である。つまり、酒が飲めなくなつた日から、劉は劉にして、劉ではない。劉自身が既になくなつてゐたとしたら、昔日の劉の健康なり家産なりが、失はれたのも、至極、当然な話であらう。(「酒虫」P79)


「を」の使い方。

――有難うございます。が、今更、何と申しましても、かへらない事でございますから……
夫人は、心もち頭を下げた。晴々した顔には、依然として、ゆたかな微笑が、たたへてゐる。(「手巾」P122)


「…が、たたへて…」が気になってメモしておいた。

さうして、発作が甚しくなると、必ず左右の鬢の毛を、ふるへる両手で、かきむしり始める。――近習の者は、皆この鬢をかきむしるのを、彼の逆上した索引にした。さう云ふ時には、互に警しめ合つて、誰も彼の側へ近づくものがない。(「忠義」P175)


この「索引」の使い方、何時か使ってみたい。

自分の眼から見れば、今の修理も破魔弓こそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が絵解きをした絵本、自分が手をとつて習はせた難波津の歌、それから、自分が尾をつけた紙鳶(いかのぼり)――さう云ふ物も、まざまざと、自分の記憶には残つてゐる……(「忠義」P183)


かなの練習は、「難波津の歌」でする。平安朝以来の慣習。

今まで死んだやうになつてゐた女が、その時急に、黄いろくたるんだ眶をあけて、腐つた卵の白味のやうにな眼を、どんより空に据ゑながら、砂まぶれの指を一つぴくりとやると、声とも息ともわからないものが、干割れた脣の奥の方から、かすかに漏れて来たからである。(「偸盗」P218)


「砂まぶれ」が気になったためのメモ。

すると忽ち又、彼の脣を衝いて、なつかしい語が、漏れて来た。「弟」である。肉親の、忘れる事の出来ない「弟」である。太郎は、堅く手綱を握つた儘、血相を変へて歯噛みをした。この語の前には、一切の分別が眼底を払つて、消えてしまふ。弟か沙金かの、選択を強いられた訳ではない。直下にこの語が、電光の如く彼の心を打つたのである。(「偸盗」P264)


「直下」を「ぢきげ」と読むのは今ではあまりない気がする。

ほかにもあったのだが、何のためにメモしたのかまったく思い出せないものは省いた。
以上。

附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)

ちょっとした切っ掛けがあって、芥川龍之介を読み返そうという気になって読み始めたので、気になったことのメモ。
『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店、昭和29年1月)による。

読み始めた当初、没頭しすぎてメモもしていなかったので、途中から。

そこで、彼等は、早速評議を開いて、善後策を講じる事になつた。善後策と云つても、勿論一つしかない。――それは、煙管の地金を全然変更して、坊主共の欲しがらないやうなものにする事である。が、その地金を何にするかと云ふ問題になると、岩田と上木とで、互に意見を異にした。(「煙管」P140)

が、煙管の地金の変つた事は独り斉広の上に影響したばかりではない。三人の忠臣が予想した通り、坊主共の上にも、影響した。しかし、この影響は結果に於て彼等の予想を、全然裏切つてしまふ事に、なつたのである。何故と云へば坊主共は、金が銀に変つたのを見ると、今まで金無垢なるが故に、遠慮をしてゐた連中さへ、先を争つて御煙管御拝領に出かけて来た。しかも、金無垢の煙管にさへ、愛着のなかつた斉広が、銀の煙管をくれてやるのに、未練のあるべき筈はない。(「煙管」P141)


今更感は強いものの、「全然」。
否定と呼応しない「全然」の用例を、google先生に教えて貰って集めようという安直な手法に走った結果ここに辿り着いた方、どうぞご自由に。

何しろ、その時分は、あの女もたつた一人のおふくろに死別れた後で、それこそ日々(にちにち)の暮しにも差支へるやうな身の上でございましたから、さう云ふ願をかけたのも、満更無理はございません。(「運」P155~156)


「にちにち」のルビは別段気にするようなものではないのだけれども、珍しくないわけでもないのでメモしておいた。

縛り首にしろと云ふ命が出た事は、直に腹心の近習から、林右衛門に伝へられた。
「よいわ。この上は、林右衛門も意地づくぢや。手を(こまぬ)いて縛り首にもうたれまい。」
彼は、昂然として、かう云つた。さうして、今まで彼につきまとつてゐた得体の知れない不安が、この沙汰を聞くと同時に、跡方なく消えてしまふのを意識した。(「忠義」P179)


「こまねく」ではなく「こまぬく」。一度気づいてしまったらさして珍しいものでもない。

この話は、忽ち幾百里の山河を隔てた、京畿の地まで喧伝された。それから山城の貉が化ける。近江の貉が化ける。遂には同属の狸までも化け始めて、徳川時代になると、佐渡の団三郎と云ふ、貉とも狸ともつかない先生が出て、海の向うにゐる越前の国の人をさへ、化かすやうな事になつた。
化かすやうになつたのではない。化かすと信ぜられるやうになつたのである――かう諸君は、云ふかもしれぬ。しかし、化かすこと云ふ事と、化かすと信ぜられると云ふ事との間に、果してどれ程の相違があるのであらう。
独り貉ばかりではない。我々にとつて、すべてあると云ふ事は、畢竟するに唯あると信ずる事にすぎないではないか。(「貉」P195~196)


読む度に何となく気になる一節なのだけれども、だから何だという考えもなく、したがって取り上げたこともないので、これ以上気になり続けないように、ここらでメモしておく。

これは、またかう云ふ事から考へて見ても、わかるだらう。それは私が昨日なじんだ吉原の太夫と、今の女房とを、私の心もちの上でくらべて見るとする。成程一人は一夜中一しよに語りあかした。一人は僅かの時間だけ、一つ舟に乗つてゐたのに過ぎない。が、その差別は、膚下一寸でなくなつてしまふ。どちらが私に、より多く満足を与へたか、それは殆どわからない。従つて、私が持つて居る愛情も(もしさう云ふものがあるとすれば)全く同じやうなものである。(「世之助の話」P205)


「差別」と「区別」の違いについて、気になって用例を見つけると記録していたのだが、纏まらないのでそのままにしているうちに、どこかに紛れてしまった。それで、紛失しないためのメモ。

猪熊の婆別れた太郎は、時々扇で風を入れながら、日陰も選ばず、朱雀の大路を北へ、進まない歩みをはこんだ。――(「偸盗」P218)

何で自分は、かう苦しまなければ、ならないのであらう。たつた一人の兄は、自分を敵のやうに思つてゐる。顔を合せる毎に、こちらから口をきいても、浮かない返事をして、話の腰を折つてしまふ。それも、時分と沙金とが、今のやうな事になつて見れば、無理のないことに相違ない。が、時分はあの女に会ふ度に、始終兄にすまないと思つてゐる。別して、会つた後のさびしい心もちでは、よく兄がいとしくなつて、人知れない涙もこぼしこぼしした。現に、一度なぞは、この儘、兄も沙金も別れて、東国へでも下らうとさへ、思つた事がある。(「偸盗」P227)

「めぐり会つて見れば、お婆は、もう昔のお婆ではない。わしも、昔のわしでなかつたのぢや。が、つれてゐる子の沙金を見れば、昔の婆が、帰つて来たかと思ふ程、俤がよう似てゐるて。されば、わしはかう思うた。今、お婆別れゝば、沙金とも亦別れなければならぬ。もし沙金と別れまいと思へば、お婆と一しよになるばかりぢや。よし、ならば、お婆を妻にしやう――かう思切つて、持つたのが、この猪熊の痩世帯ぢや。……」(「偸盗」P240~241)


助詞「に」。
2つ目の引用の「こぼしこぼしした」は、以前「つつ」のエントリで取り上げたのと同種の用例。

「偸盗」にはもう少し気になったものもあるのだけれども、それらはもう少し調べてから改めて書くことにする。