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夜桜ライトアップ

大横川沿いの桜並木が菊川橋と菊柳橋の間、ライトアップされている。

大横川
大横川

ただし、墨田区側だけ。

大横川

(SONY Cyber-shot DSC-RX100M3)

枝垂桜

我が家の枝垂桜。

枝垂桜
枝垂桜

いつもの通り鉢植え。(だから接写のみ。)

(SONY NEX-6 + TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2018/03/29 11:47 ] 自然・季節 草花 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

祝・特別賞!

本来音楽に勝ち負けなどなくて、良いか悪いか、好きか嫌いかでしかない…とは思うのだけれども、勝ち負けがあるのなら、勝つに如くはない。
で、それが一体何の話なのかというと、テレビ東京の『エンタX』という番組の音楽バトルのグランドチャンピオン大会で、以前も取り上げたことのある The Mash が優勝…こそしなかったものの、特別賞を獲得したのである。
なお、『エンタX』という番組自体は昔の『イカ天』とか『えびす温泉』のようなものなのだけれども、勝ち負けの基準が「どちらが売れそうか」だというのが、潔くて良い。理屈じゃない、ということである。

それはともかく、The Mash である。
ぼくが The Mash を知った時には既に『エンタX』で3週連続で勝ち抜いてチャンピオンになった後だったのだから、まったく無名の頃から応援している筋金入りのファンだというわけではない。ぼくより長くもっと熱心なファンはいくらもいるだろう。
それでも、ぎりぎり全国流通アルバムの発売前には滑り込めたわけだし、路上でライブしている HAL さんも知っているのだから、この後 The Mash がブレイクしたら、もっと新しいファンの人たちに対してちょっとだけ偉そうな顔ができないこともないだろう。そして、The Mash は必ずやブレイクするだろうと信じている。
とにかく、おめでとう。

こういうファンレターみたようなものは滅多に書かないのだけれども、1966年日本製、最も見苦しいロックンロールオヤジの独り言として書いた。


今回の決勝の「Baby rock show」もじきにアップされるだろうけれども、取り急ぎ予選の映像「隣のあいつの殺し方」。
番組では途中でカットされていたけれども、これはその Full Version。

[ 2018/03/29 02:07 ] 音楽・映像 The Mash | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

ブレーキ不具合

今朝(というか既に昨日)、通勤時に乗っていた都営新宿線が、駅に停まる度に停止位置を直していた。
何でも新たに導入したブレーキシステムの不具合らしいのだけれども、停止位置がずれる度に30cmほどずつ動かす修正を繰り返していた。
迷惑でないとも言えないのだけれども、あの重く長い車両を30cmだけ動かすというのは実は大変な技術なのではないかと、妙なところで感心した。

ただそれだけ。
[ 2018/03/27 00:14 ] 旅・散策 乗り物 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

『なぜ京急は愛されるのか』

最近読んだ本。

佐藤良介『なぜ京急は愛されるのか “らしさ”が光る創立120年の軌跡』

『なぜ京急は愛されるのか』

京急ファンが京急ファンのために書いた京急の本。

京急ファンが書いた、と言っても著書が多数ある(ほぼ京急関連のものだが)プロのライターと言って良い人ではあるのだけれども、熱烈な京急ファンであることは間違いない。
京急愛のあまりの強さに、京急の御用ライターか? 京急から金でも貰っているのか? と思われかねないほど誉めに誉めまくる。が、広く深い知識の上で語られている愛だから、京急嫌いの人でない限り、(そしてそういう人はこの本を手に取ることはないだろうから事実上読者全員)微笑ましい気持ちで読むことができるだろう。
京急に馴染みのある人であれば、マニアックな知識を持っている人でなくても、何となく思い当たるフシのあることがちょくちょく出て来る。
面白過ぎる。
[ 2018/03/25 10:18 ] 旅・散策 京浜急行 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

役不足(3)

「かもしれない」付きで曖昧に誤魔化してはいるものの「改めて書く」と書いたので、大して書くことはないけれども書く。

改めて引用。

「楊弓場の女だよ。矢取女にはずいぶん良い娘がいるから」
「それなら、知ってるのは五人や三人はありますが」
「言い交したのはなかったのか」
「お生憎で。ヘッ。吉原の太夫には、言い交したのが二、三人あるが、結改場(楊弓場)の矢取女じゃ、色男の方が役不足で」(野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選3 八五郎子守唄』「八五郎子守唄」P205)


「役不足」の意味については、下記の通り。

割り当てられた役目が軽過ぎ・る(て、それに満足出来ない)と思う様子だ。〔「―ながらその任を全うしたい」などと、自分の能力不足を謙遜する言い方に用いるのは誤り〕「―だと文句を言う」(『新明解国語辞典 第6版』2005年)


誤用の使い方が現れたのがいつ頃か、についてはいろいろ議論があるようだけれども、上記の胡堂の作品が書かれた昭和29年(1954)にはさほど一般化されていなかったはずだから、当時の読者は考えもせずに本来の意味で取れたのだろうけれども、誤用が一般化している現代の読者としては、いらないことを考えすぎてどういう意味なのだか判りにくくなりがちである。
それで、ちょっと考えてみる。

考えるべき関係は「矢取女」と「吉原の太夫」と「色男(=八五郎)」の三者。矢取女と吉原の太夫を比べて、「色男の方が役不足」と言っているのである。
もしこれが誤用の使い方だとすると、八五郎が、自分は吉原の太夫には相応しいが、矢取女の相手としては不足している、と言っていることになる。
が、当然のことながら、矢取女と吉原の太夫を比べたら後者の方が圧倒的に格上なわけだから、八五郎が平次に何かの皮肉だか謎掛けだかを言っているのでない限り、成り立ちそうもない。
むろんここはそんな場面ではないから、この「役不足」は本来の使い方である。
八五郎が、色男の自分にとっては、吉原の太夫は相応しいけれども、矢取女では役不足だ、矢取女なんかと言い交わしたりはしない、と(むろん本心ではなく軽口として)言っている場面なのである。

まぁ、そんなことは考えるまでもなく当たり前のことなのだが…。

フジロック

FUJI ROCK FESTIVAL '18 にディランが出演するそうだ。

ボブ・ディラン、フジロック出演へ 来日公演101回目

 2016年にノーベル文学賞を受賞した米国のミュージシャンで作詞家のボブ・ディランさん(76)が、7月27~29日に新潟県湯沢町で開かれる国内最大級の野外音楽イベント「フジロックフェスティバル」に出演することが分かった。同フェスの公式サイトが16日、発表した。

 「風に吹かれて」「ライク・ア・ローリングストーン」などの代表曲があり、日本でも高い人気を誇るディランさん。公式サイトによると、来日公演は101回目となり、ノーベル賞の受賞後は初めてという。

 1997年夏に始まったフジロックは今年で22回目。これまでにディランさんを含め国内外アーティスト30組の参加が発表されている。チケットは1次先行販売中で、購入方法など詳細は公式サイト(http://www.fujirockfestival.com/)に掲載されている。(朝日新聞DIGITAL)


101回目の来日公演なのだそうだが、永遠に生き続けている神様なのだから、取り立てて驚くほどのことでもない。
とはいえ、イベントの目玉であることは間違いないだろう。

もちろん行かないけどね。神様は遠くで拝んでいたってご利益があるから。

附箋を剥がす 『銭形平次捕物控傑作選3』

これまで附箋を剥がすの通し番号を振っていたのだが、そもそもさして正確でもなし便利でもなし、面倒なので止めにする。

野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選3 八五郎子守唄』(文春文庫)より。

約束の年季を一年も過ぎ、古河の母からは矢の催促で、近ごろ年を取って、めっきり弱ったから、早く帰って顔を見せてくれと言われる度に、私は暇も金も下さらない主人を怨みました。とうとう我慢が出来なくなったのは、この出代り時の三月三日でございました」(「権八の罪」P24)


「出代り時」。「出替り時」とも書く。「出替り」は、奉公の年季が明けて交代すること。これは注記があった方が親切だろう。

こんな稼業の人間らしくもなく、少し頑固(かたくな)らしく見えるほど、実体な男です。(「二つの刺青」P89)


「かたくな」は悪い意味で使われることが多いように思うけれども、この「かたくな」は、マイナス表現ではない。

娘手品の親方は近江金十郎という五十男で、仲間では顔の通った方ですが、それよりも女房のお角は、名前の通り四角な顔と、恐ろしい勢いでまくしたてる塩辛声とで、東西両国の香具師仲間でも、一番煙たがられている四十女でした。(「二つの刺青」P91)


これまでも何度か取り上げている「両国」の事例。ほかにも、

――伊之助の父親の伊兵衛は、人並みすぐれた頑固者で、両国の手品の娘などを、跡取り息子の嫁にすることなどは、絶対に考えられないこと、――でも二人はどうしても別れられないこと――。(「二つの刺青」P96)

「大きな結改場というと、両国、浅草、深川の八幡様裏、神田明神様――はツイ鼻の先だし、あ、ありますよ、白山前の結改場、あの後ろの白山神社は、明暦の大火でそのままになっていたのを、今度公儀で御造営することになり、加藤遠江守様の御係りで、講義から金が五百両、檜五千本の寄付があり、今は造営の真っ最中」。(「八五郎子守唄」P207)

「どういたしまして、言い交わすところまでは行かなかったんで、――六年前の岡惚れ一人、両国の結改場で鳴らした、お半でしたよ」(「八五郎子守唄」P208)


など。ただ「両国」といった場合は、今の墨田区両国ではなく隅田川西岸を指している。

お玉の替玉を殺し、お関を危うくし、さらにお豊婆さんを殺した曲者は、いったい何を企み、何を仕出かそうとするのか。その見当も付かず、全く手を拱(こまぬ)いて、次に相手の討つ術を待っているほかはなかったのです。(「二つの刺青」(P99-100)


「こまぬく」の事例。

宇三郎は三杯家の跡取りがなくなると、昔の自分の差金で捨てさせた三杯家の娘を探させたのさ。娘手品師になっていると直ぐわかったが、お関とお玉が同じように綺麗で、ちょっと見当が付かない。そこで先ずなんとなく上品で美しいお玉に当たってみると、こいつはとんだ大伴の黒主で、すぐ宇三郎に喰い下がって、年の違いも忘れて妙な仲になってしまった。(「二つの刺青」P104)


「大伴の黒主」について、この書の注には以下のようにある。

平安時代前期の歌人。生没年不詳。六歌仙の一人に数えられる。猿丸太夫の子とも大友皇子の子孫ともいわれるが、信憑性は低い。説話等で小悪人として描かれることもある。(P247)


間違ってはいないのだが、この場面の注としては無駄だろう。『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』を出さなかったら、何のことだかさっぱり判らない。
なお、「しんぴょうせい」を変換したら、「信ぴょう性」が最初に出て来た。そんな変換、止めてくれ。

平次の問いは妙な方へ発展して行きます。それをうさんに見守る三輪の万七に平次はそっと囁きました。(「死の秘薬」P184)


「うさん」の事例。

「楊弓場の女だよ。矢取女にはずいぶん良い娘がいるから」
「それなら、知ってるのは五人や三人はありますが」
「言い交したのはなかったのか」
「お生憎で。ヘッ。吉原の太夫には、言い交したのが二、三人あるが、結改場(楊弓場)の矢取女じゃ、色男の方が役不足で」(「八五郎子守唄」P205)


ちょっと難しい「役不足」の事例。これについては改めて書く…かもしれない。昭和29年(1954)の作品。

古い本を調べますとね、乞食の犯罪、貧乏人の犯罪などはあまり罰されていない。高位高官のものの汚職の罪。こういうのは、死刑を課したものでした。(「『胡堂百話』より」P231)


「罰されて」。今なら普通は「罰せられて」か。

話が、またしても、古くなるが、明治十七年頃の新聞を見ると、「日本橋区××町に、××という米屋さんがござります。その米屋さんに昨日の朝……」といった調子で、社会面のニュースが書いてある。話す言葉と書く言葉の、これこそ完全な一致である。
ところがその後、美妙斎あたりが音頭を取って、原文一致運動が起こり、いわゆる口語体が生まれた。この口語体というのは、名前は言文一致でも、その実、日常の会話と異なり、口語体という一つの文章体なのだ。論より証拠、本当に話す口調で書いているのは、漫画の本か、童話くらいしかないではないか。(「『胡堂百話』より」P237)


胡堂の文章についての一家言。国語学のテキストには(ぼくの勉強不足もあるだろうが)見掛けない見解だけれども、成程、と思わせるものはある。

2000形

予想はされていたものの、ついに引退

たぶんぼくが高校生の頃に登場した、とてつもなくカッコいい電車だった。

2000形

800形の引退も、そろそろなのだろう。
[ 2018/03/10 23:13 ] 旅・散策 京浜急行 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

附箋を剥がす(その37)『銭形平次捕物控傑作選2』

野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選2』(文春文庫)より。

親分の銭形平次の名代で、東両国の伊勢辰で鱈腹飲んだ参会の帰り途、左手に折詰をブラ下げて、右手の爪楊子で高々と歯をせせりながら、鼻唄か何か唄いながら、両国橋へ差しかかったのは真夜中近い刻限でした。(「身投げする女」P7)


前回も取り上げた「両国」。平次の頃は隅田川の西岸が両国で、東岸を「東両国」と言った、その事例。
関連する事例として、下記のものもある。

赤い御神籤を取った怪しの男をつけて行くと、駒形から、お蔵前を、両国へ出て、本所へ渡って、深川へ廻って、永代を渡って築地へ抜けて、日本橋から神田へ、九段を登って、牛込へ出て、本郷から湯島へ来ると、日はトップリ暮れたというのです。(「第廿七吉」P232~233)


土地勘のある人には自明だけれども、東岸と西岸との往来の場合には、「渡って」と記されている。

「でも、私は親のない子で、叔父さん叔母さんに藁のうちから育てられました。この暮れのくり廻しが付かないから、吉原へ身を売れと言われると、いやとは申されません」(「身投げする女」P10)


「ラ抜き」ならぬ「a-r抜き」の事例。

鳥越の平助店は、袋小路の別世界を形成した、総後架の前の四軒長屋でした。(「身投げする女」P17)


「後架」は知っていても、「総後架」という言葉は知らなかった。長屋の共同便所のことだそうだ。

樫谷三七郎は舌鼓でも打ちたい様子でした。極度に掛り合いを恐れたその当時の群衆は、よしや、眼の前で人殺しがあったところで、黙って見て、黙って引揚げてしまったことでしょう。(「花見の仇討」P48)


「舌鼓」は現在ではもっぱら御馳走を食べた時に使われるけれども、こういう使い方もあったんだな。

しばらく間をおいて、佐野屋へ入った平次。
「今ここへお滝が入ったようだが――」
うさんな眼を店中に配りました。(「花見の仇討」P61)


「うさんくさい」は良く聴くけれども、「うさん」単独で使われることは、現在ではあまりないのではないか。「くさい」は「…の様子だ」ということを表わす接尾語だから、元々は単独で使われていても不思議ではない。

平次は豁然としました。一切の不可能を取払った後に残るものは、それがいちおう不可能に見えても、可能でなければなりません。(「花見の仇討」P68)


シャーロック・ホームズっぽいな、と思って抽いておく。むろんのこと胡堂はドイルの愛読者である。

八五郎はヒラリと身をひるがえすと、怪しの男が平内様の堂を離れるのと一緒でした。二人は仲見世の人混みの中を縫って、雷門の方へ泳いで行くのを、平次は何か覚束ない心持で見送っております。(「第廿七吉」P231)


「二人は仲見世の人混みの中を縫って、雷門の方へ泳いで行く」と「雷門の方へ泳いで行くのを、…見送っております」という二つの文が叙述観点の転換によって一文で表現されている。

一と昔前は、青酸加里と明記することさえ禁じられた時代がある。その頃の小説はいかに間の抜けたものだったか私が改めて書くまでもあるまい。小説にまたは新聞に青酸加里という文字を使わなかったところで、青酸加里の自殺や犯罪は減ったわけではなく、丑刻参りが唯一の殺人方法であったわけではない、随分可笑しな話である。(「銭形平次打明け話」P281)


表現の規制についての、さすが適切な意見。