墨田区産業会館(墨田区江東橋)。 錦糸町丸井の8階にある、誰でも入れる施設。 「絶景」とまでは言えないが、撮影スポットのひとつには数えられるだろう。  なお、この写真を撮った窓の窓枠は額縁状になっている。  もっとも、ストロボを焚けばガラスが光るし、焚かなければ暗くて室内は暗転する。なかなか難しいが、ちょっと面白い写真を撮ることはできる。
小松左京さんが死去 「日本沈没」「復活の日」(asahi.com) 「日本沈没」「復活の日」などのベストセラーで知られ、日本SF界を代表する作家、小松左京(こまつ・さきょう、本名実〈みのる〉)さんが、26日午後4時36分、肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去した。80歳だった。葬儀・告別式は親族で行った。
小松左京さん死去:最期まで日本の未来を考え続けていた(毎日.jp) 「日本沈没」など未来を予見したかのような数々のSF小説を残し、小松左京さんが26日、亡くなった。膨大な知的エネルギーと森羅万象に対する好奇心と冒険心に満ち、「ルネサンス的巨人」「人間コンピューター」などの異名を取った小松さんは、東日本大震災にも心を痛め、最期まで日本の未来を考え続けていた。
小松左京さん=作家(YOMIURI ONLINE) 日本SF小説の草分けとなった作家の小松左京(こまつ・さきょう、本名・実=みのる)さんが、26日午後4時36分、肺炎のため亡くなった。80歳だった。告別式は親族で済ませた。
「日本沈没」SF作家・小松左京さん死去 80歳(msn.産経ニュース) 「日本アパッチ族」「日本沈没」などの作品で知られ、文明評論家としても評価されたSF作家の小松左京(こまつ・さきょう、本名・実=みのる)さんが26日午後4時36分、肺炎のため死去した。80歳だった。大阪市出身。告別式は親族で済ませた。
僕が中学生の頃、SF作家として星新一・筒井康隆と人気を三分していた。僕もご他聞に漏れずいくつもの作品を読んだ思い出がある。 もう30年近くも読んではいないが、それでも少しは感じるところがある。
カルピス株式会社監修『カルピス社員のとっておきレシピ』この本、カルピス社の後押しあってのことだとは思うが、最近、あちらこちらの書店で平積みにされている。 掲載されているメニューの中には、正直なところ、美味しいのかもしれないが、だからといってこんなものにカルピスを入れることはないだろう! と思うようなものも多々ある。 …といっても、これは悪口を言っているわけではない。その証拠に、この本が、いま手許にある。 料理は、作ることはまずないと思うが、ドリンクは作るかもしれないし、デザートも、簡単なものなら子供が作りたがるかもしれない。それより何より、見ていてけっこう楽しい。それで、つい、手に取ってしまったのである。 レシピだけではなく、コラム~「カルピス」誕生の話、「カルピス」の名前の由来、水玉模様の理由…etc.~もあって、読んでいても面白い。どういう話なのかは書かない。興味のある人は買うように。 カルピスの宣伝のための本のようなものではあるが、ただ宣伝に止まっていれば、買う価値はない。レシピを無料配布すれば済むことである。が、これは、ただ宣伝に止まってはいない…かどうかは個々人が判断すべきことだが、ぼくは、買った。 でも、これがカルピスじゃなくて別のものだったら、そんなに興味を惹かれることはなかったろう。それだけ、カルピスが日本人の生活の中に浸透している、ということなのだろう。
少々しつこいが、またもや 御霊神社(新宿区中井)の写真が出て来たので三たびアップする。 いかに整理されていないかが明らかだが、仕方がない。 今までとちょっと違った角度から。  ちょっとアップで。  末社に、小さな狛犬がいた。  そして、カボチャも。
ハイビスカス開花。 もっとも、初開花ではないのだが、撮り易い状態で咲いている時には時間がなく、時間のある時には撮り易い状態ではなかった。 (Canon EOS20D + TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)例の如く鉢植えで、背景が隣のビルだから、大したことはない。
皆中稲荷神社(新宿区百人町)。 皆中=ミナアタルということで、株、ギャンブル、宝くじなど、勝負事に非常にご利益のある神社である。 何、遠方で参拝できない?…ご心配なく。 こちらをどうぞ。  こんな末社がある。神棚…?  別の末社。以前(といっても10年以上前)行った時はこんなだった。  で、今は、 こんな。
あまんきみこ『あまんきみこ童話集』上質な児童文学は、大人が読んでも面白い。 あまんきみこといえば、松井さんのタクシーでおなじみ、「 車のいろは空のいろ」のシリーズが名高いが、それ以外にも、幻想的な童話を数多く書いている。 解説でも絶賛されているが、「さよならのうた」は、この作品集中でも傑出していると思う。 大人向けの話としての「欠点」をあげつらって、あくまでも子供向けだと言おうとすれば、言えないことはないだろう。 たとえば、よもぎ野原で「ぼく」が出会って竹とんぼで遊んだ男の子が誰なのか、あまんの作品を多少なりとも読みつけている人であれば、容易に想像が付くはずである。意外な展開ではけっしてない。 にもかかわらず、作品の末尾でそれが明かされた時、改めて涙せずにはいられない。むしろ、大人の方が、自分の経験に照らして、より深く思いを致すことになるのではないだろうか。 少し話は逸れるが、推理小説の結末をしゃべらない、というのがマナー、というより厳格なルールになっているが、僕はくだらないことだと思っている。結末が判ってしまったら面白くないというのは、小説として面白くないからである。シャーロック・ホームズの結末なんて、みんな知っているが、それでも繰り返し読まれているわけである。だから、ストーリーの展開の想像が付く、ということは、小説としての欠点ではありえない。 むろん、推理だけで成り立っているような二流の推理小説の結末は、話してはいけない。それは、確かにマナーである。 「ひゃっぴきめ」「カーテン売りがやってきた」は、ちょっと怖い。怖がりな子に寝る前に読んで聞かせたら寝られなくなってしまうかもしれない。だから、子供に読み聞かせるなら、親がまず一読して作品を選んでからにすることをお勧めする。それに、子供に読み聞かせないとしても、大人が読む価値はあるだろう。
今日の狛犬。 北野神社(中野区中野)。  吽行の右足の下にある鞠には、長い組紐のようなものが付いている。  阿行の背にいる子獅子、特別に出来が良いわけではないが、なかなかかわいらしい。  そして、今日の犬。 神社の目の前の店(閉まっていたが)の前にいた。  (Canon EOS20D + TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
「 全然」の用例の追加である。 屋下に屋を架したうえに、さらに屋を架すようなことで、まるで意味はないのだが、今回敢えて追加するのは、谷崎潤一郎の『文章読本』(昭和9年)の中にある事例だからである。 『文章読本』なのだから、これが正しい日本語なのに違いない!? これは前に申し上げたことと矛盾するようでありますけれども、一歩進んで考えてみますと、口語文といえども、文章の音楽的効果と視覚的効果とを全然無視してよいはずはありません。
かように申しましても、私は文法の必要を全然否定するのではありません。
また、次に掲げるのは森鴎外の「即興詩人」の一節でありまして、西鶴とは全然別種の、素直な、癖のない書き方でありますが、かくの如きものも正しく名文の一つであります。
と申しますのは、総べて感覚は主観的なものでありますが故に、甲の感じ方と乙の感じ方と全然一致することはめったにあり得ない。
そのためにはセンテンスの構造や言葉の順序を取り変えたり、全然用語を改めたりする必要も起る。
今、 彼は毎日学校へ通ふ。 と云う文章を、口語文に訳すとしまして、もし講義調を用いれば、かくの如き現在形の単純な文章においては全然文章体と同じく、 彼は毎日学校へ通う。 となります。
ですから私は、読み方のために文字を合理的に使おうとする企図をあきらめてしまい、近頃は全然別な方面から一つの主義を仮設しております。
詮ずるところ、文字使いの問題につきましては、私は全然懐疑的でありまして、皆さんにどうせよこうせよと申し上げる資格はない。
今日は階級制度が撤廃されつゝありますので、煩瑣な敬語は実用になりませんけれども、それにしましても衣冠束帯が素襖大紋になり素襖大紋が裃になり、裃が紋附袴やフロックコートになったと云う程度に、儀礼が行われておりますからには、敬語も全然すたれたわけではありません。
無用の補足をしておく。 2例目は、文末が「ありません」になってはいるが、これは「全然」と呼応しているわけではない。「全然-否定する」ということを「ありません」と言うのである。 4例目も、「全然-一致する」ことが「あり得ない」と言っているわけである。 最後の例は、「全然-ありません」とも見えるが、「全然-すたれた」ということが「ありません」と見た方が良いのではないか。 そのほか、「全然-無視」「全然-否定」「全然-別種」「全然-改める」「全然-別な」「全然-懐疑的」「全然-すたれた」という言い方が、否定的な言い方と呼応する例だ、と強弁する人がいるかもしれないが、それはただのコジツケである。
いよいよ小学校の夏休みが始まった。 冬休みの時にも書いたが、学校の長い休みの時期には、当ブログの「読書感想文の書き方」の各エントリへのアクセスが増加する。もっとも、手頃なものを探して丸写し、というのがアクセスの主な目的だろうから、増加したと言っても、手放しで喜べる筋合いのものではない。 とはいえ、これほどまでに如実にアクセスが上がると、第2弾を書いてみようか、という気にもなる。むろん、「気になる」だけで、こんな面倒なこと、気力と体力が充実していないとできないが…。 アクセスのログを見ていると、「読書感想文の書き方」と、「5年生」「坊ちゃん」「400字」「原稿用紙」「2枚」というようなワードを組み合わせて来ている場合が多いようである。これは、今までと同じ傾向。 だが、ここのところのアクセスで、何でそんなワードで? というものがある。いずれも、「読書感想文」との組み合わせである。 「曲り角の日本語」「聖徳太子」。 どちらも、それぞれの書籍を紹介したページと、「読書感想文」のカテゴリで引っ掛かっている。それで来てしまった方、何の参考にもならなくて申し訳ない。 ただ、『曲り角の日本語』(岩波新書)のような本で感想文を書くのは難しいし、『聖徳太子』(同)もお話ではなくて歴史の書だから、やはり感想文には向いていないと思うのだが…。 何か特別な事情がない限り、他のものを選んだ方が良くはないだろうか。 「三宝絵」。 『聖徳太子』を紹介した文の中に「三宝絵」ということばが入っていて、それが引っ掛かっているわけだが、それにしてもこれは、意味不明である。「三宝絵」で感想文を書かなければいけない人に、一体どういう事情があるのかと思うと、実に興味をそそられる。 そもそも、「三宝絵」など、まず、読みこなして何が書かれているかを理解する段階で、相当高い壁がある。その上でさらに、感想文を書こうと思っても、何を書いたら良いのやら、さっぱり見当がつかない。 だいたい、提出される側も、余程の博学か物好きでない限り、書かれていることが妥当なのかどうか、判断のしようがないのではないか。
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