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いわゆる「ロックダウン」

3月23日に小池都知事がイベントの自粛の継続を求めた、というニュースで、発言自体がきちんと記載されたものは案外少なかったのだけれども、比較的長文で引用されていたFNNのニュースを元にこれを書く。

小池都知事「この3週間、オーバーシュート(感染者の爆発的増加)が発生するか否かの大変重要な分かれ目、分かれ道である。イベントの自粛について、引き続き、ご協力いただきますよう、強くお願いを申し上げます」

小池都知事「事態の今後の推移によりましては、都市の封鎖、いわゆる『ロックダウン』など、協力な措置をとらざるを得ない状況が出てくる可能性があります」


前から思っていたことだけれども、説明抜きには通じないカタカナ言葉を得意気に使うのは何とかならないものだろうか。
あちこちの記事を見たけれども、「オーバーシュート」を注釈抜きで報じているものは一つも見当たらなかった。
もちろんそれは当然で、注釈抜きではほとんどの人に意味が通じないからである。
「ロックダウン」についても、都知事が自分で「都市の封鎖」と言ってはいるけれども、該当の記事の見出しには「首都の封鎖あり得る」とある。つまり、「ロックダウンありうる」では読者に通じない、という判断があるということである。
街頭演説などで何となく聴衆の雰囲気を摑めば良いのであればともかく、記者会見で都民にお願いをするのに、こんなふわっとした雰囲気でしゃべるのはいかがなものか。
もしかしたらご本人にはふわっとした感覚はなくて、頭が良すぎるとこういうカタカナ言葉が誰にでもすんなり通じると思ってしまうだけなのかもしれないけれど…。

もう一つ、「都市の封鎖、いわゆる『ロックダウン』」は正しい言い方なのか。
「いわゆる」を『日本国語大辞典』で引くと、

世間一般にいわれている。また、一般にそうたとえられている。


とある。用例として、
「中に一つの剣有り。此れ所謂草薙剣なり。」(日本書紀、神代上)
「このおとどは、忠平の大臣の二郎君、御母、右大臣源能有の御女、いはゆる九条殿におはします。」(『大鏡』右大臣師輔)
などがあげられている。
『新訂大言海』には、

世ニ言ハルル。常ニ言フ。


とあり、用例は同じ書紀など。
もう一つ、『新明解国語辞典』を見ても、

世間で普通に言っている。俗に言う。


たとえば、「いわゆる「ら抜き言葉」」と言う場合、「見られる」を「見れる」と、「食べられる」を「食べれる」とするような現象が、一般に「ら抜き言葉」と言われている、ということである※。
言わずもがなだが、「いわゆる」の「ゆる」は上代の受身の助動詞「ゆ」の連体形に由来する。
が、「都市の封鎖、いわゆる『ロックダウン』」の場合、「世間一般にいわれて」いないし、「世ニ言」われていないし、「世間で普通に言」ってもいない。ほかの報道でも見出しは「首都の封鎖」「東京封鎖」などとなっていて、「ロックダウン」という言葉では、一般に、世に、世間に通じない、というのが報道各社の判断である。
どうしても「ロックダウン」という言葉が使いたいのであれば、「都市の封鎖、つまり『ロックダウン』」とか、もう少し文語調の言い方がしたいのなら「都市の封鎖、すなわち『ロックダウン』」とか、でなければならないだろう。
個人的には、「都市の封鎖」とだけ言われれば意味は判るのだが…。

「凹凸」

「正しい日本語」に関心を持つ人は少なからずいるようで、書店に行くと正しい日本語本を良く目にする。
ことばの使い方というのはクイズのように簡単にマルバツの付けられるものではないから、何が正解、何が不正解、と言う知識を羅列されても、何となく満足感が得られるだけで、さして実りのあるものではない。

先日立ち読みしたある本に、「凹凸」を「でこぼこ」と読むのは間違いだ、と書いてあった。
それが必ずしも間違いだ、とは言えないけれども、何しろ書かれている理由が奮っていた。それは、「でこぼこ」なら「凸凹」だと言うのである。
そもそも「凸」は「でこ」とは読まないし、「凹」も「ぼこ」とは読まない。「凹凸(オウトツ)」という漢語に「でこぼこ」という和語を宛てた宛字である。

「蜻」は「とん」とは読まないし「蛉」も「ぼ」とは読まない。けれども、だから「蜻蛉」を「とんぼ」と読むのは間違いだ、ということにはならない。
漢字そのものをどう読むか、ということと、漢字の文字列をどう訓むか、ということとは、まったく別の問題である。

こんな本を読むのは実につまらないけれども、つまらないということがわかるのは、ちょっとだけ楽しい。

「ほくそ笑む」


気になった記事。
もうこの試合の結果は出てるけど…。

バド・奥原「最終的には泥仕合になる」 女子決勝は「奥原VS山口」日本人対決

 日本が誇る女子の両エースが決勝で相まみえる。先に駒を進めていた奥原が「最終的には泥仕合になる。我慢比べ」と展開を予告。この発言を聞いた山口は「泥仕合になったら向こうの勝ち。あまり長い試合にならないように頑張りたい」とほくそ笑んだ。(デイリー)


山口選手はほくそ笑んだんだそうだ。
こんな時にほくそ笑むのは、山口選手の人間性に問題があるのか、記者が山口選手のことを嫌いなのか、記者の日本語力に問題があるのか……。

なお、三番目以外の可能性については、かなり苦労してひねり出した。
なおなお、僕は山口選手には真摯なコメントをする人だという印象しかないので、一番目を採る気はさらさらない。

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』

電車の中刷り広告の見出しを見ただけで全て判ったような気になってしまう人のことを、岡本おさみは「見出し人間」と呼んだ。

「お笑い草だ 誰も彼もチンドン屋」(「ひらひら」)

常日頃から「見出し人間」にはなるまいとは思っているのだけれども、どうしてもそういう弊に陥ってしまうことがある。
そのことに気づく機会があったので、反省を込めて書き残す。

以前書いたエントリ(「読解力」2017/11/28)で、中高生の国語力の低下の深刻さを扱った記事を取り上げた。
調査の結果は成程と思うものではあったけれども、その記事の中で、近頃はやりのAIに短絡的に結び付けていると感じて浅さを指摘した。
そんなことは忘れていたのだけれども、最近偶然この書籍に出会った。

新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

上記のエントリで取り上げた記事の調査を行なった研究チームを率いる「国立情報学研究所の新井紀子教授」の著書、しかも当該の記事が取り上げた内容が書かれているのが本書である。
「はじめに」に目を通しただけでこのエントリが見当外れだったことが判った。

著者は「AIが東大に合格できるか」というプロジェクトを行なっている人で、その経験・知識の上からAIの可能性・限界を踏まえた上で、国語力の大切さを訴えている。
AIには少なくとも現時点では限界があって、人間のような思考を行なってことばを使うことはできない。だから、AIがどんなに進化しても、人間のやる仕事をすべてAIに置き換えることはできないという。
が、肝心の人間の国語力がAIの能力を下回っていたら、当然、そういう人間がやっている仕事は容易にAIに置き換えられてしまう。
AIに仕事を奪われないためにはAIにできない人間としての思考力、国語力を持つ必要がある、ということが述べられているのであって、単に、AIが発達したら人間の仕事が奪われる、という漠然とした不安を煽っているのではない。
むろん、ここに書かれていることが全部正しいかどうかは判らない。
例えば、著者は、巷で語られるシンギュラリティ(とてつもなく簡略化するとAIが人間の知能を超えること)は来ない、とくり返し断言している。むろん想像を超える大発明があるのが世の常だから、この予測は外れるかもしれないけれども、そんなことは本質的な問題ではない。
どんな本にでも言えることだけれども、書かれていることを鵜呑みにするのではなく、自分で考えながら読まなければならない。
これ以上は書かないけれども、国語に興味のある方は、読んでみて損はないだろうと思う。

贅言。
件の記事から与えられた印象と本書の内容には隔たりが大きく感じられるから、記者の理解が浅かったと言えないこともないけれども、出典に当らずに軽々に物を言ったのは僕の意識がその記者程度に浅かったということだろう。
ネットに落ちている断片的な情報で真実が判ったような気でいる諸君(かく言う自分もその一人たることを免れないが)、何か物を言うためには、原典に当るべきである。

「ありがとうざいます」

いろいろ検索していてたまたま目に入った記事。
リンク貼ってまで見てもらいたい内容ではないので貼らずにおくが、まったく以て何をか言わんや。

「誠にありがとうございます」は正しい敬語?お礼の敬語表現と例文集

ビジネスマンにとって正しい敬語が使えるかどうかは評価の基準にもなる重要な要素です。日常的に使っている言い回しでも、ビジネスレターでの表現としては相応しくないものも少なくありません。今回は、「ありがとう」等の感謝を伝えるビジネスでのお礼の敬語表現について考えてみます。


なるほど、役に立ちそうな内容だ…が…。

4つの「ありがとうございます」

私たちが「ありがとうございます」を敬語表現する場合、大きく以下の4つが考えられます。

・どうもありがとうございます。
・本当にありがとうございます。
・まことにありがとうございます。
・大変ありがとうございます。


確かに敬語は難しい、そう簡単に使いこなせるものではないし、説明するのも難しい、とはいえ、ここまで「敬語表現」を判っていない文章には、なかなかお目に掛かれない。
ここからは、「ありがとうざいます」という『非敬語表現』を『敬語表現』にするためには、頭に「どうも」「本当に」「まことに」「大変」という『敬語』を付ける、と言っているようにしか読み取れない。
これらの『敬語』は、尊敬・謙譲・丁寧の、一体どれに当たるのだろうか。

この後、それぞれの使い方の違いを実に詳しく説明しているのだけれども、どうでもいいや。

「させていただく」

先日、新聞にとある芸能人の婚約発表の記事が載っていた。
知らない人だからさしたる興味はなく、気まぐれで目を通しただけだったのだけれども、記事によればその女性は男性から「プロポーズをしていただき」、「『はい』と返事をさせていただきました」のだそうだ。
一概に「させていただく」撲滅運動を行なうつもりはまったくなく、それも歴とした日本語だとは思うのだけれども、これはやはり気になる「させていただく」である。
大監督から映画出演のオファーを受けたのなら「『はい』と返事をさせていただ」いて良いと思うのだけれども、婚約者は身内である。この「させていただく」には、「お父さんに教えていただきました」というのと同じくらいの気持ち悪さがある。
…と、書いて来て、ふと「させていただく」が謙譲表現ではなく丁寧表現に変化して来ているのかもしれないと気が付いた。

ところで、「お風呂をいただきます」というような言い方が丁寧語と説明されることがある。けれども、これは本来的には違うだろうと思う。
戦前の家庭で父親が娘に対してそう言うことはなかったはずで、妻や子供が家長に対して使うのが普通だったろう。
家は家長の物だから、それを使う時に謙譲するのである。あるいは、人の家に来て風呂を借りる時に風呂の持ち主たる相手を敬ってそう言うのである。あるいは、知人と温泉に来て自分が入ろうとする時に相手に配慮してそう言うのである。
いずれも、相手を立てるために自分がへりくだる「謙譲」の表現である。
それが、話題の対象(芸能人と婚約者)とは関係なく、聞き手に対する純粋な丁寧表現に変化したのが、昨今の「させていただく」なのではなかろうか。
「返事しました」では丁寧さの度合いが足りないと感じられるようになって来て(これを「言葉の擦り減り」と言う)、新たな丁寧表現が生まれたということなのかもしれない。

どんな記事でも読んでみるものだ。

「蚊帳の外」

先日、CS放送で「吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006」をやっていた。
過去にNHKで放映していたものをそのまま放送したもので、画面に表示されているNHKのロゴまでそのままだった。
長いので全部は見ておらず、最初のあたりの拓郎のステージを見たのだけれども、「ペニーレインでバーボン」を歌っていたのにちょっと驚いた。
驚いたのは、この曲は初期のアルバム『今はまだ人生を語らず』に収められている名曲なのだが、この曲があるお陰で、アルバムが廃盤になったまま再発されない、という謂れのある曲だからである。
まったくバカみたいな話なのだが、「テレビはいったい誰のためのもの/見ている者はいつもつんぼさじき」という歌詞が、問題なのだと言う。

それで、テレビで見た「ペニーレインでバーボン」である。どうするのかと思って見ていたところ、拓郎は、「見ている者はいつも蚊帳の外で」と歌っていた。
時代とともに歌詞が変わることはまったく否定しないし、今更拓郎に何かと戦ってもらいたいとも思っていない。それに、言い換えとしてはかなり巧みな部類に入るのではないかとも言えるのだけれども、何となく興醒めな気がしなかったわけでもない。

押っ取り刀

先週全国規模で執り行なわれた超巨大な試験の試験会場での出来事。
ある監督者の曰く、
「時間がタイトだからオットリガタナでやってたら間に合わねぇな」

…S教授、タイトだからこそ「オットリガタナ」で行動するよう願う。いや、それでも慎重に…。

「学者・博士」

アンケートが選択式か記述式かでも事情は異なるのだけれども…。

男子がなりたい職業1位は「学者・博士」 第一生命調査

 男子が大人になったらなりたい職業1位は、学者か博士――第一生命が1月5日に発表したアンケート調査でそんな結果が出た。15年ぶりにトップに返り咲いた。

 学校以外でも理科実験を行う私学塾が登場するなどして、自ら探求したいと考える子どもが増えていると同社は分析。2014年から3年連続で日本人がノーベル賞を受賞しているトレンドも相まって、人気が上昇したという。

 17年には“天才物理学者”が主人公の「仮面ライダービルド」(テレビ朝日系列)も放送され、注目を集めていた。

 2位は野球選手、3位はサッカー選手と続いた。野球選手がサッカー選手を上回ったのは8年ぶり。女子では、1位が食べ物屋さん(21年連続)、2位が看護師さん、3位が保育園か幼稚園の先生だった。

 調査期間は17年7~9月。全国の未就学児と小学生(1~6年生)1100人から回答を得た。(ITmedia)


産経新聞の記事には「学者・博士になりたい男の子では「がんを完璧に治したい」「遊んでくれるロボットをつくりたい」と理系の科学者が注目を集めた。」とあって、それ自体は大変結構なことである。
が、ひとつ言っておくと、学者も博士も「職業」ではないのだが…。

「言い訳」と「説明」

ある物故した日本語学者が、生前良く待ち合わせに遅れて来たのだが、来るとその途端に、必ず何故遅れて来たか、という話を始める。
恩師が、彼は良く言い訳をする男だ、と言ったのに反論して曰く、
「自分のしているのは言い訳ではなく説明である。
言い訳と説明は違う。言い訳は自分のためにするもので、説明は他人のためにするものである。
相手は、きっと何故自分が遅れて来たのだろうと思っている。
自分は、その疑問を解消すべく、相手のために説明をしているのである。」
と。
非常に厳格で論理的な研究をしている方だったが、こんなことを大真面目な顔で「説明」するところに、大いなる人間味が溢れていた。

昨日のエントリを書いていて思い出した昔話。