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「仇討」

近・現代の文学でも、月の出・入をいい加減に扱っていることはない、 それを理解していると、古典だけではなく近・現代の文学でもより面白く読むことができる、というような趣旨のことを書こうとしていて、読んだことのある、月の出て来そうな作品をいくつか読み返していた、その副産物。
月の描写自体は使えそうだったのだけれども、それ以外で、これは本当に合っているのか? と疑わしいところが出て来た。とはいえ、僕の知識のなさによる誤解だったら恥ずかしいので、間違っているのでは? と大っぴらに書くのは憚られる。
そんなものをここに書き付ける。

赤穂浪士の討入を描いた、直木三十五の「仇討」。

出立の時刻は七つ刻――八時。――今の八時とは時代がちがう。まして雪の夜のもう大河端は人が通らない。(心得)


「七つ刻」というのは史実のとおりらしいのだが、「七つ刻」は本来は4時のはずだ。

降りに降った雪も宵になって止んで、八つをすぎる頃には月さえ出た。丁度十四日という明るい月夜である。(雪明)


「七つ刻」から「八つ」になっているが、この当時の時刻の数え方は、0時を「九つ」として、二時間ごとに数が減って行く。もし2時間後の時刻を表すのであれば、「六つ」でなければならないはずである。
なお、「十四日」の月が出るのは17時過ぎのはずだけれども、この前にずっと雪が降っていて宵になってやんだという描写があるから、これは月の出の描写ではない。

浪士が吉良邸に討ち入った場面。

表門は檜材分厚の扉。掛矢で叩破ろうとすれば凄まじい音がする。その音に起出されて防がれては事面倒である。二挺の梯子が門の右側の塀へ立てかけられる。大高源吾、間十次郎の二人が登って行く。誰も黙して語らない。月は真上に冴亘っていて雪の上へ鮮かな影を落している。(表門)


ここに時間の表現などないだろうと思う勿れ。ここには月が「真上」にあると書いてある。月が「真上」に来るのは月の出の6時間後、17時過ぎに出たのなら、23時過ぎということである。
討入開始が「八時」の2時間後、22時だとすると若干ズレているようにも思うが、多少の誤差は「真上」という表現の許容範囲内だろうから、これについては問題ないだろう。
けれども、全体的に考えて、この作品の時間の経過は不審である。

史実としては、無縁寺(回向院)に到着したのが5時頃、そこから泉岳寺に移動したのが8時頃だと言われているようだ。
作品中にも、浪士一行が泉岳寺に着いたのは、

十五日の朝八時すぎである。(引揚)


と書かれている。
作品中に回向院に着いた時刻は明記されていないけれども、泉岳寺に着いた時刻が史実通りなのだから、回向院に着いた時刻もほぼ史実通りの時刻で想定して良いだろう。
最初に引用した「七つ刻」が仮に「八時」だったとして、「八つ」がその2時間後だったとしても、14日の20時に出立、22時に討入開始、討入後に回向院に着いたのが朝5時ということになる。
両国界隈の地理をご存じない方のために書いておくと、吉良邸から回向院まで、ゆっくり歩いても10分と掛からない。
とすれば、吉良邸での戦闘が、7時間近くも続けられていたということになる。これは、さすがに無理なのではないか。

これはうってつけの材料だ、と喜び勇んで読み返したら、こりゃダメだ、となったという次第。

訃報・眉村卓

今さら感はあるが…。

SF作家 眉村卓さん死去 「ねらわれた学園」

「ねらわれた学園」などのSF小説で知られる作家の眉村卓さんが誤えん性肺炎のため、3日朝、亡くなりました。85歳でした。眉村卓さん、本名 村上卓児さんは昭和9年、大阪市に生まれ、大阪大学経済学部を卒業後、コピーライターを経て作家としてデビューしました。

眉村さんは「まぼろしのペンフレンド」や「ねらわれた学園」など、少年少女向けのいわゆる「ジュヴナイルSF」を数多く発表し、昭和54年には人類が宇宙に進出した未来に植民地の惑星で展開される人間模様を描いた「消滅の光輪」で泉鏡花文学賞を受賞しました。 

青表紙本

源氏物語で最古の写本発見 定家本の1帖「教科書が書き換わる可能性」

 源氏物語の現存する最古の写本で、鎌倉時代の歌人・藤原定家による「定家本」のうち「若紫」1帖(じょう)が、東京都内の旧大名家の子孫宅で見つかった。冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)が8日発表した。定家が校訂したとみられる書き込みや、鎌倉期に作られた紙の特徴などから、同文庫が定家本と鑑定した。

 既に確認されている定家本4帖は、いずれも国の重要文化財に指定されている。「若紫」は、光源氏が後に妻となる紫の上との出会いを描く重要な帖だけに、今後の古典文学研究に大きな一石を投じる可能性がある。(京都新聞)


見出しはややオーバーな感じはするけれども、久しぶりに大型の発見だろうと思う。

まぁ、発見物にはさほど興味はないんだけれども…。

「続文芸的な、余りに文芸的な」

芥川最晩年の随筆 自筆原稿を初公開

 作家の芥川龍之介(1892~1927年)が、谷崎潤一郎と文学論を戦わせた最晩年に発表した随筆「続文芸的な、余りに文芸的な」の自筆原稿を、東京都北区の田端文士村記念館が入手し、同館で展示されている。全集に収録されるなど随筆の存在は知られていたが、自筆原稿が一般公開されるのは初めてという。

 芥川が自殺を遂げる数カ月前に執筆したとみられ、記念館研究員の種井丈さんは「心身共に衰弱した芥川が、悲壮な覚悟で文学上の難題と真摯に向き合った姿がうかがえる」と話している。(産経新聞)


自筆原稿にはさしたる興味はないものの、芥川好きとして一応メモしておこうと思った次第。

訃報201901

梅原猛さん死去=哲学者、独自の「日本学」―93歳

 古代史の大胆な仮説を提唱するなど、独自の視座から幅広く日本文化を論じた哲学者で文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが12日午後4時35分、肺炎のため京都市内の自宅で死去した。

 93歳だった。葬儀は近親者で行い、後日しのぶ会を開く予定。喪主は長男で京都造形芸術大教授の賢一郎(けんいちろう)さん。(JIJI.COM)


もう1件。
ちょっとスケールは違うけれど…。

SF作家の横田順彌さん死去

 横田 順彌さん(よこた・じゅんや=SF作家)4日、心不全のため横浜市の自宅で死去、73歳。

 佐賀県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は姉、鈴木ます子(すずき・ますこ)さん。後日、しのぶ会を開く予定。

 ユーモアSF小説で人気を博し、日本の古典SF研究の草分けとしても活躍。「快男児 押川春浪」(共著)で日本SF大賞、「近代日本奇想小説史 明治篇」で同賞特別賞と日本推理作家協会賞などを受賞した。 (JIJI.COM)

雑感

ある本を立ち読みをしていて思ったこと。

暫く前に鳴り物入りで刊行されたある文学全集の関連書籍で、堤中納言物語の説明として「『源氏物語』などの影響を感じさせない作風が特徴」と書かれていた。
これを書いたのが誰なのかは知らないけれども源氏物語も堤中納言物語も読んでいないんだろう。
類型的じゃない、っていうことで堤中納言物語を褒めたつもりなんだろうけれども、他のものと似ていないのが良い、というステレオチイプな考え方が頭に染み付いているようでは、到底古典文学を理解することはできない。

以上。

訃報・伊原昭

少し前の訃報。

伊原昭さん死去

 伊原昭さん(いはら・あき=国文学者、梅光学院大名誉教授、本名伊原昭子〈いはら・あきこ〉)20日、老衰で死去、100歳。葬儀は近親者で行った。

 古典文学に登場する色を収集した「日本文学色彩用語集成」(全5巻)がある。(朝日新聞DIGITAL)


これまで見たこともないくらい簡略な記事だけれども、残した業績についてはご存知の方も多いことと思う。

自筆原稿

メモ。

太宰治「斜陽」、最終回の直筆原稿など発見

 作家、太宰治(1909~48年)の代表作の一つ「斜陽」の連載最終回の冒頭の直筆原稿をはじめ、二葉亭四迷や島崎藤村の小説の原稿、石川啄木や菊池寛の手紙など約30点が新潮社の関係者宅から見つかった。

 調査した早稲田大の中島国彦名誉教授は「文芸誌『新潮』などにゆかりがある原稿類を中心とし、点数も多い。近代文学の貴重な資料だ」としている。

 今回の資料は、新潮社の佐藤俊夫元会長が長く保管していた。

 「斜陽」は、「新潮」で1947年7月号から10月号に掲載された。今回の原稿は9月号と10月号の冒頭の2枚ずつ。「斜陽」は、200字詰め直筆原稿計521枚を日本近代文学館(東京都目黒区)が所蔵しており、6枚が所在不明になっていた。見つかったのは、そのうちの4枚という。(読売新聞)


個人的には、自筆原稿を重視しない立場に立つので、さしてワクワクすることもないのだけれども、貴重な発見ではあると思う。
四迷のものは、ちょっと面白そうではある。(他記事によれば、「其面影」の草稿で、完成稿とは書き出しが異なるのだとか。)

ひらがな

平安和歌刻む土器出土 全国初、山梨・甲州

 山梨県甲州市塩山にある奈良-平安時代の「ケカチ遺跡」から出土した土器に、仮名文字で和歌1首が刻まれていたことが分かり、同市や山梨県立博物館(同県笛吹市)が25日、発表した。同館によると、和歌1首が丸ごと刻まれた土器の出土は全国初で「平仮名の確立時期を裏付ける貴重な資料」としている。

 土器は皿の形をした「甲斐型土器」。2016年5月に出土した。直径12.4センチ、高さ2.6センチで、ほぼ完全な形で見つかった。特徴や土の種類から、平安時代中期(10世紀中ごろ)に、国府が直営する山梨県内の釜で生産されたとみられる。

 和歌は土器を焼く前に、表面に刻まれていた。ヘラのようなものを使ったらしい。皿の中央から左縁にかけて5行にわたり「しけいとのあはすや■なはふくるはかりそ(■は欠損)」などと記されていた。作者は不明。(産経ニュース)

和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに

 山梨県甲州市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代の「ケカチ遺跡」の居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかった。甲州市と市教委が25日、発表した。土器を調べた県立博物館の平川南館長(日本古代史)は「この時期のひらがなのみで書かれた和歌1首が出土資料として発見された例はなく、中央から地方へのひらがなの伝播(でんぱ)を知る上で極めて重要だ」と話している。

 発表によると、甲斐型土器と呼ばれる素焼きの土師器(はじき)の皿(直径約12センチ)の内面に、1文字の欠損部分を含め31文字が5行にわたって刻まれている。生乾きの状態で竹べらの先端を用いて彫り、その後焼成されたとみられる。すずりや鉄製のおもりなどとともに出土した。

 和歌は、一例として「我(われ)により 思ひ繰(くく)らむ 絓糸(しけいと)の 逢(あ)はずやみなば 更(ふ)くるばかりぞ」と読めるという。万葉集や古今和歌集などに見られないオリジナルで、恋や別離の和歌に使われる「絓糸(しけいと)」の言葉があり、惜別の気持ちを伝える内容。筆運びの巧みさから、都から派遣された国司のような人物が送別の宴席で地元の有力者に贈ったものとみられ、受け取る教養人が地方にいたことも示している。

 ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる。平川さんは「墨書ではなく刻書にしたのは、2人の関係を長く保ちたいという気持ちの表れではないか。ひらがなが成立したとされる『土佐日記』(935年ごろ)に近い時期の一等資料で、仮名の変遷とともに国文学や書道史の上でも価値がある」と話している。(朝日新聞DIGITAL)


10世紀中盤にひらがなが使われていたこと自体は新しい知見ではないものの、裏づける資料が多くて悪いわけがない。従来の説が誤りではなかったということを確かめるのも、重要なことである。

さて、…。
産経。「5行にわたり」と書いてあるのに3行分しか書かないのはいかがなものか。詳しくない人が見たら、これのどこが「和歌1首まるごと」なのか? と思われかねない。
朝日。和歌の読みを「一例として…と読める」と書いてあるのは、一般の人には通じないだろうと思う。「くくらむ」は、他紙によれば、「くるらむ」の可能性もあるようだ。「ひらがな」であることに意味があるのに、漢字を宛ててしまって読みを括弧書きするのはどうなのだろう。ある程度の知識のない人なら、「我により 思ひ繰くらむ…」と書かれていると思ってしまうのではないか。「ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる」というのは簡潔だが、こういうふうにきちんと説明されることは少ないように思う。「国文学…の上でも価値がある」とは、かならずしも思わない。

ところで、「ケカチ」って、何なんだろう?

正岡子規

メモ。

正岡子規の未発表5句見つかる 自画像2点も

今年生誕150年を迎えた俳人・正岡子規(1867~1902)が、死の前年の正月に詠んだ俳句5句と自画像2点などが載った冊子が見つかった。全集などにもなく、晩年の子規の心情や様子がうかがえる資料だ。

表紙に「明治卅(さんじゅう)四年一月一日 歳旦帳」と記された和とじの32ページの冊子(縦24センチ、横16センチ)で、子規と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)ら弟子や友人13人が俳句や短歌、画をしたためている。長い間所在不明で「子規庵(あん)」(東京都台東区)を運営する子規庵保存会に数年前に寄託された個人の資料から見つかった。

子規は掲載8句のうち5句が新出。無署名だが、筆跡や、それ以前にも似た句があることなどから子規の句と判断された。(朝日新聞DIGITAL)