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附箋を剥がす 『殺人仮装行列』

山本周五郎『周五郎少年文庫 殺人仮装行列』(新潮文庫)より。

柚木三吉は思切ったように、
「素直に申上げなかったのは悪うございました。然しまだ何もはっきり分っていないのに、友達に厭な疑いをかけたくなかったのです」(P16)


「悪うございました」。年少者向けの作品だけれども、当時はこれが常識だったのだろう。「~うございます」は、このほかにも多々出て来る。

「メイヤーの仕業ですね、部長」
「君もそう思うか。――如何にもメイヤーの復讐だ。そうで無くてこの帽子をだれが届ける? ジャックの捕縛に対する復讐として、奴等は楳原を殺し、我社を嘲笑するために態とこの帽子を届けて寄来したんだ」(P117)


「そうで無くて」。「不人情でなくつて…」などで取り扱った、接続助詞「て」。

「仕事はどうした。旨く行ってるかい」
「もう石膏を叩くばかりさ」
「じゃあ十分間に合うな、――吉田や波木井はどうしてる?」
「二人ともやっているよ」
「まあ精々頑張ってくれよ、季節外れの会で批評家の目が光ってるから、迂闊して敲かれないように頼むぜ」(P186)


「迂闊して」。漢語にサ変動詞「する」を付けると動詞化するのは日本語の特徴の一つ。ふつうなら「迂闊なことをして」だろうが…。

女学校二年生にしては大柄な方で、顔だちも姿もずば抜けて美しく、――府立第×高女の豪華版――と、評判されていた。(P229)


「評判されて」。上記と同。

然し車は無事に東京駅へ着いた。三人の乗る列車は七時三十分の下関行特急「富士」である。――王子は手鞄ひとつの身軽さで歩廊(プラットホーム)に立っていた。桂子が花売娘から紫はしどいの花束を買っていると、
「やあ、波多野さん暫く」
と声を掛けながら、向うから和服と背広姿の男が二人近寄ってきた。(P239)


「紫はしどい」って何なんだ? と思って調べてみたらライラックの和名だった。

「ではこう仰有って下さい。蔦屋で午後五時まで待っています。五時までにおいでがなければ断然東京へ帰ります」(P371)


「断然」。何となく気になっていることばなだけ。

道は幾曲り、半島へかかった。と……向うの角岩を今や曲ろうとしている馬車、
「あッ、伯父さーん」
祐吉は馬上に絶叫した。(P377)


「馬上に」。助詞「に」の使い方。

橋島のひと言はみんなを(ぎょっ)とさせた。顔色から見たって冗談を云っているとは思えない、其処にいた五六人の仲間は、思わず椅子から立って橋島の方へ集って来た。(P387)


「恟」。見たことがない…わけではないかもしれないけれども、少なくとも使ったことのない漢字が宛てられていたので…。

附箋を剥がす 「ぐずくさ」

附箋を剥がす、というより剥がれた附箋。

「76ー5 ぐずくさ」というメモだけが残っている。
メモした理由は明確で、読んでいた本の中に出て来た「ぐずくさ」ということばを見たことがなかったからなのだけれども、一体何の本の76頁5行目にこのことばが出て来たのかはまったく思い出せない。

このことばを見てからいくつかの辞書で「ぐずくさ」を引いたけれども出て来なかった。
まあいいや、何となく判るから…と思っている内に、本とメモとが泣き別れになったようだ。
そんな経緯はどうでも良いのだけれども、このまま放っておくとこのメモすらどこかに行ってしまうので散逸防止のためのメモのメモ。

恐らく、下記のものと関係があるのだろう。

くさ[語素]①定まらないさまを表わす。「どさくさ」「ちょぼくさ」「ちょびくさ」②小うるさい気持を表わす。「ごてくさ」「ぶつくさ」③皺のよったさまを表わす。「もめくさ」(『日本国語大辞典』)


「くさ」を「語素」とするのが適切なのかどうかは良く判らない。
むろん、「語素」であるのには違いないのだけれども、同じ『日本国語大辞典』の「語素」の項には、

単語を分解して得られる、意味を有する最小の単位。広義には接頭語・接尾語や、分解しがたい独立の単語となるものをも含めて考えるが、狭義には、接頭語・接尾語以外で「いちじるしい」の「しる」、「やせこける」の「こけ」、「にんげん」の「にん」「げん」などを言う。この辞典では、狭義によって、複合の成分と認められるものに限り、特に字音から出たものについては字音語素とよぶ。造語要素。


とある。この基準に従えば、「くさ」は接尾語に当たるようにも思えるのだが…。

なお、①②③と分けられているけれどもどうなのだろう。
例えば①「定まらないさまを表わ」しているのは「どさくさ」などのことばであって、「くさ」自体にそういう意味があるのではない。②も③も同じである。
つまり、「くさ」は「さまを表わ」したり「気持を表わ」したりしているだけだろう。
だから「ぐずくさ」は、「愚図なさまを表わす」ことばなのだと思う。

具体的な用例が不明なので、もうこれ以上書くことがない。
とはいえ、これだけでも書いておけば、いつか見つかることがあるかもしれない。

訃報201901

梅原猛さん死去=哲学者、独自の「日本学」―93歳

 古代史の大胆な仮説を提唱するなど、独自の視座から幅広く日本文化を論じた哲学者で文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが12日午後4時35分、肺炎のため京都市内の自宅で死去した。

 93歳だった。葬儀は近親者で行い、後日しのぶ会を開く予定。喪主は長男で京都造形芸術大教授の賢一郎(けんいちろう)さん。(JIJI.COM)


もう1件。
ちょっとスケールは違うけれど…。

SF作家の横田順彌さん死去

 横田 順彌さん(よこた・じゅんや=SF作家)4日、心不全のため横浜市の自宅で死去、73歳。

 佐賀県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は姉、鈴木ます子(すずき・ますこ)さん。後日、しのぶ会を開く予定。

 ユーモアSF小説で人気を博し、日本の古典SF研究の草分けとしても活躍。「快男児 押川春浪」(共著)で日本SF大賞、「近代日本奇想小説史 明治篇」で同賞特別賞と日本推理作家協会賞などを受賞した。 (JIJI.COM)

雑感

ある本を立ち読みをしていて思ったこと。

暫く前に鳴り物入りで刊行されたある文学全集の関連書籍で、堤中納言物語の説明として「『源氏物語』などの影響を感じさせない作風が特徴」と書かれていた。
これを書いたのが誰なのかは知らないけれども源氏物語も堤中納言物語も読んでいないんだろう。
類型的じゃない、っていうことで堤中納言物語を褒めたつもりなんだろうけれども、他のものと似ていないのが良い、というステレオチイプな考え方が頭に染み付いているようでは、到底古典文学を理解することはできない。

以上。

「ありがとうざいます」

いろいろ検索していてたまたま目に入った記事。
リンク貼ってまで見てもらいたい内容ではないので貼らずにおくが、まったく以て何をか言わんや。

「誠にありがとうございます」は正しい敬語?お礼の敬語表現と例文集

ビジネスマンにとって正しい敬語が使えるかどうかは評価の基準にもなる重要な要素です。日常的に使っている言い回しでも、ビジネスレターでの表現としては相応しくないものも少なくありません。今回は、「ありがとう」等の感謝を伝えるビジネスでのお礼の敬語表現について考えてみます。


なるほど、役に立ちそうな内容だ…が…。

4つの「ありがとうございます」

私たちが「ありがとうございます」を敬語表現する場合、大きく以下の4つが考えられます。

・どうもありがとうございます。
・本当にありがとうございます。
・まことにありがとうございます。
・大変ありがとうございます。


確かに敬語は難しい、そう簡単に使いこなせるものではないし、説明するのも難しい、とはいえ、ここまで「敬語表現」を判っていない文章には、なかなかお目に掛かれない。
ここからは、「ありがとうざいます」という『非敬語表現』を『敬語表現』にするためには、頭に「どうも」「本当に」「まことに」「大変」という『敬語』を付ける、と言っているようにしか読み取れない。
これらの『敬語』は、尊敬・謙譲・丁寧の、一体どれに当たるのだろうか。

この後、それぞれの使い方の違いを実に詳しく説明しているのだけれども、どうでもいいや。

附箋を剥がす 『新アラビヤ夜話』

しばらく前に読み始めた本が意外に面白くなく、そのまま何となく本を手に取るのが億劫になっていた時期があるのだが、最近ぼちぼちと読み始めたものの1冊。
いつもの通りただのメモ。感想や考察はない。

スティーブンスン『新アラビヤ夜話』(岩波文庫)。1934年初版、佐藤緑葉訳。

だがその気持が非常に強かつたので、それがあらゆる他の動機を圧へつけてゐた。それで進んで相手を探すといふ気持にもなれなかつたが、断然逃げ帰るといふ心にもなれなかつた。(「医師と旅行鞄の話」P20)


「断然」の用例。「全然」との関連で気になっていることばなので、メモしておいた。

殿下の馬車は、サイラスをクレーヴン町のクレーヴン・ホテルへ連れて行つた。そして宿屋の番頭頭にまかせると、そのまゝすぐ帰つて行つた。たゞ一つの空いてる部屋らしかつたのは、階段を四つ上つた上の小さな部屋で、裏通りの方へ向いてゐた。この庵室へ、二人の頑丈な人夫が、大骨折りで、不平たらゞゝ、例の旅行鞄を担ぎ上げた。(同、P43-44)


「空いている」ではなくて「空いてる」。
「たらだら」。ふつうは「たらたら」だが、こんなところが連濁? しちゃうことがあるんだな。

そして彼のたゞ一人の生き残つてゐる親は、からだも弱く、頭もなかつたので、その後はつまらぬ、上品な遊芸の修行などに暇をつぶしても、別に故障を言ふものもなかつた。(「帽子箱の話」P56)


「故障を言ふ」というのは別に変なことばでも何でもないけれども、最近聞かないな、と思っただけ。

サイモン・ロールズ師は倫理学でも名の聞こえた人だつたが、神学の研究でも並々ならぬ練達の士であつた。彼の「社会的の義務に関する基督教義に就て」と題する論文は、それが出版された当時、牛津大学で相当な評判となつたものであつた。(「若い僧侶の話」P100)


「牛津」はオックスフォード。Ox=牛、ford=浅瀬というところからの宛て字だろう。津=浅瀬かどうかは微妙なところだけれども、変わった訓読みの例。
なお、これを「訓読み」というには違和感があるかもしれないけれども、大雑把に言うと漢字音を元にしたのが音読み、日本語の意味を漢字に宛てたのが訓読みだから、「オックスフォード」は和語ではないけれども音読みではない。音読みなら(そんなことばはないけれども)「ギュウシン」。
ちなみに、そういう意味から言うと、「紐育」は字音を宛てたものだから音読み。

コメントなしに引用だけしておく。

「どうもむづかしいお話ですな。」と、その人は言つた。「ざつくばらんに言ふと、私は本といふものは、汽車で旅行する時に慰みに読む外には、たいして役に立つ物だとは思ひません。尤も天文学とか、地球儀の用法とか、農学とか、または造花法とかに就いては、相応に正確な著述があると思ひますが。世の中の事に関する漠然とした方面では、本当に役に立つやうな物はあるまいと思ひますよ。だが、お待ちなさい。」と、彼は附け加へた。「あなたはガボリオーの物をお読みになつた事がありますか?」(同、P108)


「させていただく」

先日、新聞にとある芸能人の婚約発表の記事が載っていた。
知らない人だからさしたる興味はなく、気まぐれで目を通しただけだったのだけれども、記事によればその女性は男性から「プロポーズをしていただき」、「『はい』と返事をさせていただきました」のだそうだ。
一概に「させていただく」撲滅運動を行なうつもりはまったくなく、それも歴とした日本語だとは思うのだけれども、これはやはり気になる「させていただく」である。
大監督から映画出演のオファーを受けたのなら「『はい』と返事をさせていただ」いて良いと思うのだけれども、婚約者は身内である。この「させていただく」には、「お父さんに教えていただきました」というのと同じくらいの気持ち悪さがある。
…と、書いて来て、ふと「させていただく」が謙譲表現ではなく丁寧表現に変化して来ているのかもしれないと気が付いた。

ところで、「お風呂をいただきます」というような言い方が丁寧語と説明されることがある。けれども、これは本来的には違うだろうと思う。
戦前の家庭で父親が娘に対してそう言うことはなかったはずで、妻や子供が家長に対して使うのが普通だったろう。
家は家長の物だから、それを使う時に謙譲するのである。あるいは、人の家に来て風呂を借りる時に風呂の持ち主たる相手を敬ってそう言うのである。あるいは、知人と温泉に来て自分が入ろうとする時に相手に配慮してそう言うのである。
いずれも、相手を立てるために自分がへりくだる「謙譲」の表現である。
それが、話題の対象(芸能人と婚約者)とは関係なく、聞き手に対する純粋な丁寧表現に変化したのが、昨今の「させていただく」なのではなかろうか。
「返事しました」では丁寧さの度合いが足りないと感じられるようになって来て(これを「言葉の擦り減り」と言う)、新たな丁寧表現が生まれたということなのかもしれない。

どんな記事でも読んでみるものだ。

訃報・伊原昭

少し前の訃報。

伊原昭さん死去

 伊原昭さん(いはら・あき=国文学者、梅光学院大名誉教授、本名伊原昭子〈いはら・あきこ〉)20日、老衰で死去、100歳。葬儀は近親者で行った。

 古典文学に登場する色を収集した「日本文学色彩用語集成」(全5巻)がある。(朝日新聞DIGITAL)


これまで見たこともないくらい簡略な記事だけれども、残した業績についてはご存知の方も多いことと思う。

附箋を剥がす 『自由学校』

昔々メモしておいたものが見つかった。大したものではないのだけれども、折角だから上げておく。
獅子文六『自由学校』より。

窮屈なのは、東京通信社ばかりではない。東京生活一般が、ひどく面倒くさいことになったのである。物質的にも、精神的にも、個人の生活がこんなにむつかしくなった時が、今まであったろうか。
世間が物騒だから、警官を増やしたらいいといえば、再軍備論者だと、思われる。平和、平和と叫けべば、代々木のマワシ者かと、疑われる。なんにも、口がきけやしない。(自由を求めて、P147)


だから政治向きの話題は語りにくい。現代でも同じ。

附箋を剥がす 『江戸川乱歩作品集I』

『江戸川乱歩作品集I 人でなしの恋・孤島の鬼 他』(岩波文庫)の附箋を剥がす。

私は自分自身の過去の姿を眺めるような心持で、一枚一枚とページをはぐっていきました。(「日記帳」P6)


「はぐる」は「おおいなどをめくる」意。『新明解国語辞典』にはまさに「ページを―」という用例が載っていた。

でも、あの人が私の夫になるかたかと思いますと、狭い町のことで、それに先方も相当の家柄なものですから、顔ぐらいは見知っていましたけれど、噂によれば、なんとなく気むずかしいかたのようだがとか、あんな綺麗なかたのことだから、ええ、ご承知かもしれませんが、門野というのは、それはそれは、凄いような美男子で、いいえ、おのろけではございません、美しいといいますうちにも、病身なせいもあったのでございましょう、どこやら陰気で、青白く、透きとおるような、ですから、一そう水ぎわだったのでございますが、それが、ただ美しい以上に、何かこう凄いような感じだったのでございます。(「人でなしの恋」P37)


「すごい」は現在では副詞的に使われることが多いようだ。「すごい人」というような場合でも、これはむろん形容詞ではあるけれども、「すごく頭のいい人」とか「すごく大勢の人」というようなニュアンスで使われていると思しい。「すごい音」なら「すごく大きな音」だったり「すごく素晴らしい音」だったりする、など。
が、古典の授業で「ものすごし」などという言葉を教わった記憶のある方もいるだろうけれども、「すごい」には元々「恐ろしい」ニュアンスがあった。この「凄い」はそういう例で、「凄いような美男子」というのは必ずしも美男子であることを100%褒めているのではなくて、後文にあるように「陰気で、青白く、透きとおるような」少し恐ろしさ(…とまでは言えないにしても)を感じさせる表現である。

あなたはおみやげ人形といわれるものの、不思議な凄味をご存じでいらっしゃいましょうか。或いはまた、往昔、衆道の盛んでございました時分、好き者たちが、なじみの色若衆の似顔人形を刻ませて、日夜愛撫したという、あの奇態な事実を御存じでいらっしゃいましょうか。(「人でなしの恋」P61)


「すきもの」ではなくここでは「すきしゃ」。

木下芙蓉は彼の幼い初恋の女であった。彼のフェティシズムが、彼女の持ち物を神と祭ったほどの相手であった。しかも、十幾年ぶりの再会で、彼は彼女のくらめくばかり妖艶な舞台姿を見せつけられてたのである。(「蟲」P89)


「―めく」の事例。「くらむ」とか「くらくら」の「くら」に接尾語「めく」が付いている。

明らかに彼はなお木下芙蓉を恋していた。しかもその恋は、あの破綻の日以来、一層その熟度を増したかとさえ思われたのである。今や激しき恋と、深い憎しみとは、一つのものであった。とはいえ、もし今後彼が芙蓉と目を見かわすようなことが起こったならば、彼はいたたまらぬほどの恥と憎悪とを感じるであろう。(「蟲」P97)


「いたたまれぬ」ではなくて「いたたまらぬ」。『新明解国語辞典』の「いたたまれない」の項目に、用例はないものの、そういう語形があることだけは、記されている。

十歳前後の子供であったとはいえ、人一人刺殺されるのを見逃すはずはなかった。又、彼から一間ばかりのところに腰をおろしていたかの二人の細君たちも、彼女らは深山木の身辺に近づいたものがあれば、気がつかぬはずはないような地位にいたのだが、そんな疑わしい人物は一度も見なかったと断言した。(「孤島の鬼」P228)


今ではそんな使い方はしないと思うが、嘗ては社会的な位置のことだけでなく、場所・位置のことを示す用法もあったようだ。
ググったら、漱石の『草枕』に「ありゃ、いい地位にあるが、誰の家  なんですか」という用例があるらしいが、今読み返してきちんと引用する余裕がない。

私は熟考を重ねた末、結局、もう少し諸戸に接近して、この私の疑いを確かめてみるほかはないと心を定めた。そこで、深山木の変死事件があってから一週間ばかりたった時分、会社の帰り、私は諸戸の住んでいる池袋へと志したのである。(「孤島の鬼」P234)

私はこの条理整然たる推理に一応は感服したのであるが、だが、よく考えてみると、そうして通路だけが解決されたところで、もっと肝要な問題がいろいろ残っている。古道具屋の主人がどうしてその犯人気づかなかったのか。たくさんの野次馬の面前を、犯人は如何にして逃げ去ることができたのか。一体犯人とは何者であるか。(「孤島の鬼」P255)


助詞「を」の使い方。

まあ、ゆっくり聞いてくれたまえ。実は僕は初代さんなり深山木氏なりの敵討ちに、君お手伝いして、犯人探しをやってもいいとさえ思っているのだから、ぼくの考えをすっかり順序だてて話をして、君の意見を聴こうじゃないですか。(「孤島の鬼」P255)


助詞「に」の使い方。

そして僕は一つの仮説を組み立てた。仮説ですよ。だから、確実な証拠を見るまでは空想だといわれても仕方がない。しかし、その仮説が考えうべき唯一のものであり、この一連の事件のどの部分にあてはめてみても、しっくり適合するとしたら、我々はその仮説を信用しても差し支えないと思うのです」(「孤島の鬼」P258)


推理小説に良く出て来るシャーロック・ホームズばりの台詞。つい、書きたくなるんだろうな。

「じゃいってごらん。なんといったっけな。おじさんは胴忘れしてしまったんだよ。さあいってごらん。ほら、そうすればこのお日さまのように美しいチョコレートの缶がお前のものになるんだよ」(「孤島の鬼」P273)


『新明解国語辞典』に、「「どわすれ」の長呼。「胴」は借字」とある。

それは一種異様の告白文であって、こまかい鉛筆書きの、仮名ばかりの、妙な田舎なまりのある文章で、文章そのものも、何とも言えない不思議なものであったが、読者の読みやすいように、田舎なまりを東京言葉になおし、漢字を多くして、次に映しておく。括弧や句読点も、私が書き入れたものである。(「孤島の鬼」P290)


日本語の文章として、「仮名ばかり」なのも「括弧や句読点」がないのも読みにくい、ということ。

岩屋島の西がわの海岸で、それは諸戸屋敷とは中央の岩山を隔てて反対のがわなのだが、ほとんど人家はなく、断崖の凸凹が殊に烈しくて、波打際にさまざまの形の奇岩がそそり立っている。その中に一と際目立つ烏帽子型の大岩があって、その大岩の頂きに、ちょうど二見が浦の夫婦岩のように、石で刻んだ小さい鳥居が建ててある。(「孤島の鬼」P394)


「夫婦岩」に「みょうといわ」というルビがある。「めおといわ」より風情がある気がする。