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附箋を剥がす 『新アラビヤ夜話』

しばらく前に読み始めた本が意外に面白くなく、そのまま何となく本を手に取るのが億劫になっていた時期があるのだが、最近ぼちぼちと読み始めたものの1冊。
いつもの通りただのメモ。感想や考察はない。

スティーブンスン『新アラビヤ夜話』(岩波文庫)。1934年初版、佐藤緑葉訳。

だがその気持が非常に強かつたので、それがあらゆる他の動機を圧へつけてゐた。それで進んで相手を探すといふ気持にもなれなかつたが、断然逃げ帰るといふ心にもなれなかつた。(「医師と旅行鞄の話」P20)


「断然」の用例。「全然」との関連で気になっていることばなので、メモしておいた。

殿下の馬車は、サイラスをクレーヴン町のクレーヴン・ホテルへ連れて行つた。そして宿屋の番頭頭にまかせると、そのまゝすぐ帰つて行つた。たゞ一つの空いてる部屋らしかつたのは、階段を四つ上つた上の小さな部屋で、裏通りの方へ向いてゐた。この庵室へ、二人の頑丈な人夫が、大骨折りで、不平たらゞゝ、例の旅行鞄を担ぎ上げた。(同、P43-44)


「空いている」ではなくて「空いてる」。
「たらだら」。ふつうは「たらたら」だが、こんなところが連濁? しちゃうことがあるんだな。

そして彼のたゞ一人の生き残つてゐる親は、からだも弱く、頭もなかつたので、その後はつまらぬ、上品な遊芸の修行などに暇をつぶしても、別に故障を言ふものもなかつた。(「帽子箱の話」P56)


「故障を言ふ」というのは別に変なことばでも何でもないけれども、最近聞かないな、と思っただけ。

サイモン・ロールズ師は倫理学でも名の聞こえた人だつたが、神学の研究でも並々ならぬ練達の士であつた。彼の「社会的の義務に関する基督教義に就て」と題する論文は、それが出版された当時、牛津大学で相当な評判となつたものであつた。(「若い僧侶の話」P100)


「牛津」はオックスフォード。Ox=牛、ford=浅瀬というところからの宛て字だろう。津=浅瀬かどうかは微妙なところだけれども、変わった訓読みの例。
なお、これを「訓読み」というには違和感があるかもしれないけれども、大雑把に言うと漢字音を元にしたのが音読み、日本語の意味を漢字に宛てたのが訓読みだから、「オックスフォード」は和語ではないけれども音読みではない。音読みなら(そんなことばはないけれども)「ギュウシン」。
ちなみに、そういう意味から言うと、「紐育」は字音を宛てたものだから音読み。

コメントなしに引用だけしておく。

「どうもむづかしいお話ですな。」と、その人は言つた。「ざつくばらんに言ふと、私は本といふものは、汽車で旅行する時に慰みに読む外には、たいして役に立つ物だとは思ひません。尤も天文学とか、地球儀の用法とか、農学とか、または造花法とかに就いては、相応に正確な著述があると思ひますが。世の中の事に関する漠然とした方面では、本当に役に立つやうな物はあるまいと思ひますよ。だが、お待ちなさい。」と、彼は附け加へた。「あなたはガボリオーの物をお読みになつた事がありますか?」(同、P108)


「させていただく」

先日、新聞にとある芸能人の婚約発表の記事が載っていた。
知らない人だからさしたる興味はなく、気まぐれで目を通しただけだったのだけれども、記事によればその女性は男性から「プロポーズをしていただき」、「『はい』と返事をさせていただきました」のだそうだ。
一概に「させていただく」撲滅運動を行なうつもりはまったくなく、それも歴とした日本語だとは思うのだけれども、これはやはり気になる「させていただく」である。
大監督から映画出演のオファーを受けたのなら「『はい』と返事をさせていただ」いて良いと思うのだけれども、婚約者は身内である。この「させていただく」には、「お父さんに教えていただきました」というのと同じくらいの気持ち悪さがある。
…と、書いて来て、ふと「させていただく」が謙譲表現ではなく丁寧表現に変化して来ているのかもしれないと気が付いた。

ところで、「お風呂をいただきます」というような言い方が丁寧語と説明されることがある。けれども、これは本来的には違うだろうと思う。
戦前の家庭で父親が娘に対してそう言うことはなかったはずで、妻や子供が家長に対して使うのが普通だったろう。
家は家長の物だから、それを使う時に謙譲するのである。あるいは、人の家に来て風呂を借りる時に風呂の持ち主たる相手を敬ってそう言うのである。あるいは、知人と温泉に来て自分が入ろうとする時に相手に配慮してそう言うのである。
いずれも、相手を立てるために自分がへりくだる「謙譲」の表現である。
それが、話題の対象(芸能人と婚約者)とは関係なく、聞き手に対する純粋な丁寧表現に変化したのが、昨今の「させていただく」なのではなかろうか。
「返事しました」では丁寧さの度合いが足りないと感じられるようになって来て(これを「言葉の擦り減り」と言う)、新たな丁寧表現が生まれたということなのかもしれない。

どんな記事でも読んでみるものだ。

訃報・伊原昭

少し前の訃報。

伊原昭さん死去

 伊原昭さん(いはら・あき=国文学者、梅光学院大名誉教授、本名伊原昭子〈いはら・あきこ〉)20日、老衰で死去、100歳。葬儀は近親者で行った。

 古典文学に登場する色を収集した「日本文学色彩用語集成」(全5巻)がある。(朝日新聞DIGITAL)


これまで見たこともないくらい簡略な記事だけれども、残した業績についてはご存知の方も多いことと思う。

附箋を剥がす 『自由学校』

昔々メモしておいたものが見つかった。大したものではないのだけれども、折角だから上げておく。
獅子文六『自由学校』より。

窮屈なのは、東京通信社ばかりではない。東京生活一般が、ひどく面倒くさいことになったのである。物質的にも、精神的にも、個人の生活がこんなにむつかしくなった時が、今まであったろうか。
世間が物騒だから、警官を増やしたらいいといえば、再軍備論者だと、思われる。平和、平和と叫けべば、代々木のマワシ者かと、疑われる。なんにも、口がきけやしない。(自由を求めて、P147)


だから政治向きの話題は語りにくい。現代でも同じ。

附箋を剥がす 『江戸川乱歩作品集I』

『江戸川乱歩作品集I 人でなしの恋・孤島の鬼 他』(岩波文庫)の附箋を剥がす。

私は自分自身の過去の姿を眺めるような心持で、一枚一枚とページをはぐっていきました。(「日記帳」P6)


「はぐる」は「おおいなどをめくる」意。『新明解国語辞典』にはまさに「ページを―」という用例が載っていた。

でも、あの人が私の夫になるかたかと思いますと、狭い町のことで、それに先方も相当の家柄なものですから、顔ぐらいは見知っていましたけれど、噂によれば、なんとなく気むずかしいかたのようだがとか、あんな綺麗なかたのことだから、ええ、ご承知かもしれませんが、門野というのは、それはそれは、凄いような美男子で、いいえ、おのろけではございません、美しいといいますうちにも、病身なせいもあったのでございましょう、どこやら陰気で、青白く、透きとおるような、ですから、一そう水ぎわだったのでございますが、それが、ただ美しい以上に、何かこう凄いような感じだったのでございます。(「人でなしの恋」P37)


「すごい」は現在では副詞的に使われることが多いようだ。「すごい人」というような場合でも、これはむろん形容詞ではあるけれども、「すごく頭のいい人」とか「すごく大勢の人」というようなニュアンスで使われていると思しい。「すごい音」なら「すごく大きな音」だったり「すごく素晴らしい音」だったりする、など。
が、古典の授業で「ものすごし」などという言葉を教わった記憶のある方もいるだろうけれども、「すごい」には元々「恐ろしい」ニュアンスがあった。この「凄い」はそういう例で、「凄いような美男子」というのは必ずしも美男子であることを100%褒めているのではなくて、後文にあるように「陰気で、青白く、透きとおるような」少し恐ろしさ(…とまでは言えないにしても)を感じさせる表現である。

あなたはおみやげ人形といわれるものの、不思議な凄味をご存じでいらっしゃいましょうか。或いはまた、往昔、衆道の盛んでございました時分、好き者たちが、なじみの色若衆の似顔人形を刻ませて、日夜愛撫したという、あの奇態な事実を御存じでいらっしゃいましょうか。(「人でなしの恋」P61)


「すきもの」ではなくここでは「すきしゃ」。

木下芙蓉は彼の幼い初恋の女であった。彼のフェティシズムが、彼女の持ち物を神と祭ったほどの相手であった。しかも、十幾年ぶりの再会で、彼は彼女のくらめくばかり妖艶な舞台姿を見せつけられてたのである。(「蟲」P89)


「―めく」の事例。「くらむ」とか「くらくら」の「くら」に接尾語「めく」が付いている。

明らかに彼はなお木下芙蓉を恋していた。しかもその恋は、あの破綻の日以来、一層その熟度を増したかとさえ思われたのである。今や激しき恋と、深い憎しみとは、一つのものであった。とはいえ、もし今後彼が芙蓉と目を見かわすようなことが起こったならば、彼はいたたまらぬほどの恥と憎悪とを感じるであろう。(「蟲」P97)


「いたたまれぬ」ではなくて「いたたまらぬ」。『新明解国語辞典』の「いたたまれない」の項目に、用例はないものの、そういう語形があることだけは、記されている。

十歳前後の子供であったとはいえ、人一人刺殺されるのを見逃すはずはなかった。又、彼から一間ばかりのところに腰をおろしていたかの二人の細君たちも、彼女らは深山木の身辺に近づいたものがあれば、気がつかぬはずはないような地位にいたのだが、そんな疑わしい人物は一度も見なかったと断言した。(「孤島の鬼」P228)


今ではそんな使い方はしないと思うが、嘗ては社会的な位置のことだけでなく、場所・位置のことを示す用法もあったようだ。
ググったら、漱石の『草枕』に「ありゃ、いい地位にあるが、誰の家  なんですか」という用例があるらしいが、今読み返してきちんと引用する余裕がない。

私は熟考を重ねた末、結局、もう少し諸戸に接近して、この私の疑いを確かめてみるほかはないと心を定めた。そこで、深山木の変死事件があってから一週間ばかりたった時分、会社の帰り、私は諸戸の住んでいる池袋へと志したのである。(「孤島の鬼」P234)

私はこの条理整然たる推理に一応は感服したのであるが、だが、よく考えてみると、そうして通路だけが解決されたところで、もっと肝要な問題がいろいろ残っている。古道具屋の主人がどうしてその犯人気づかなかったのか。たくさんの野次馬の面前を、犯人は如何にして逃げ去ることができたのか。一体犯人とは何者であるか。(「孤島の鬼」P255)


助詞「を」の使い方。

まあ、ゆっくり聞いてくれたまえ。実は僕は初代さんなり深山木氏なりの敵討ちに、君お手伝いして、犯人探しをやってもいいとさえ思っているのだから、ぼくの考えをすっかり順序だてて話をして、君の意見を聴こうじゃないですか。(「孤島の鬼」P255)


助詞「に」の使い方。

そして僕は一つの仮説を組み立てた。仮説ですよ。だから、確実な証拠を見るまでは空想だといわれても仕方がない。しかし、その仮説が考えうべき唯一のものであり、この一連の事件のどの部分にあてはめてみても、しっくり適合するとしたら、我々はその仮説を信用しても差し支えないと思うのです」(「孤島の鬼」P258)


推理小説に良く出て来るシャーロック・ホームズばりの台詞。つい、書きたくなるんだろうな。

「じゃいってごらん。なんといったっけな。おじさんは胴忘れしてしまったんだよ。さあいってごらん。ほら、そうすればこのお日さまのように美しいチョコレートの缶がお前のものになるんだよ」(「孤島の鬼」P273)


『新明解国語辞典』に、「「どわすれ」の長呼。「胴」は借字」とある。

それは一種異様の告白文であって、こまかい鉛筆書きの、仮名ばかりの、妙な田舎なまりのある文章で、文章そのものも、何とも言えない不思議なものであったが、読者の読みやすいように、田舎なまりを東京言葉になおし、漢字を多くして、次に映しておく。括弧や句読点も、私が書き入れたものである。(「孤島の鬼」P290)


日本語の文章として、「仮名ばかり」なのも「括弧や句読点」がないのも読みにくい、ということ。

岩屋島の西がわの海岸で、それは諸戸屋敷とは中央の岩山を隔てて反対のがわなのだが、ほとんど人家はなく、断崖の凸凹が殊に烈しくて、波打際にさまざまの形の奇岩がそそり立っている。その中に一と際目立つ烏帽子型の大岩があって、その大岩の頂きに、ちょうど二見が浦の夫婦岩のように、石で刻んだ小さい鳥居が建ててある。(「孤島の鬼」P394)


「夫婦岩」に「みょうといわ」というルビがある。「めおといわ」より風情がある気がする。

「もえみぼし」

甚だ唐突なのだけれども、「烏帽子」という言葉を眼にすると、どうしても思い出してしまうことがある。
昔々、今よりもっと真面目に勉強していた頃のことだけれども、『羅生門』の表現をこれまで誰も読んだことのない新しい視点で読み直そう! というような一見斬新な、挑発的なシンポジウムを聴いたことがあった。
そのシンポジウムの内容は、新しい視点なんてそんな簡単に出るはずがない、という予定調和的な印象を持っただけだったのだが、1点、強く印象に残っていることがある。
パネラーの一人の国語学者らしい人が、下人の被っている「揉烏帽子」を「もえみぼし」と読んだ。
まぁ、読み間違えは誰にでもあること、最初はあまり気に留めなかったのだけれども、「揉烏帽子」が出て来る度に何度も何度も同じように読む。たまたま間違えたのではなくて、そもそも「揉烏帽子」の読み方が判らず、文庫本なりなんなりにあったルビ「もみえぼし」を読み間違えて、「もえみぼし」だと思い込んだらしい。
発表後に別のパネラーから読みの誤りの指摘があったのだが、「すみません、手許の資料の写し間違いです」と悪びれもせずに答えていたのには唖然とした。
「揉烏帽子」というものを知らなかったとしても(かく言う僕も、その言葉自体は『羅生門』で初めて触れたような気がするが)、「烏帽子」を知っていれば、読み方は「ナントカえぼし」なんだろうな、と容易に見当は付く。そして、その見当が付きさえすれば、「揉烏帽子」を「もえみぼし」などと読み間違えることはけっしてない。「アボカド」を「アボガド」と間違えるのとは、訳が違うのである。
国語学者だから、とか芥川の専門家じゃないから、とかいうようなこと以前の問題で、日本語話者なら、さらに『羅生門』を研究対象にしようとするほどの者であれば、「烏帽子」を知らないことなんてありえない。そんな者の『羅生門』研究など、たとえ語学的観点からのものだったとしても聴く価値がまったくない…と感じたという思い出話。

役不足(3)

「かもしれない」付きで曖昧に誤魔化してはいるものの「改めて書く」と書いたので、大して書くことはないけれども書く。

改めて引用。

「楊弓場の女だよ。矢取女にはずいぶん良い娘がいるから」
「それなら、知ってるのは五人や三人はありますが」
「言い交したのはなかったのか」
「お生憎で。ヘッ。吉原の太夫には、言い交したのが二、三人あるが、結改場(楊弓場)の矢取女じゃ、色男の方が役不足で」(野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選3 八五郎子守唄』「八五郎子守唄」P205)


「役不足」の意味については、下記の通り。

割り当てられた役目が軽過ぎ・る(て、それに満足出来ない)と思う様子だ。〔「―ながらその任を全うしたい」などと、自分の能力不足を謙遜する言い方に用いるのは誤り〕「―だと文句を言う」(『新明解国語辞典 第6版』2005年)


誤用の使い方が現れたのがいつ頃か、についてはいろいろ議論があるようだけれども、上記の胡堂の作品が書かれた昭和29年(1954)にはさほど一般化されていなかったはずだから、当時の読者は考えもせずに本来の意味で取れたのだろうけれども、誤用が一般化している現代の読者としては、いらないことを考えすぎてどういう意味なのだか判りにくくなりがちである。
それで、ちょっと考えてみる。

考えるべき関係は「矢取女」と「吉原の太夫」と「色男(=八五郎)」の三者。矢取女と吉原の太夫を比べて、「色男の方が役不足」と言っているのである。
もしこれが誤用の使い方だとすると、八五郎が、自分は吉原の太夫には相応しいが、矢取女の相手としては不足している、と言っていることになる。
が、当然のことながら、矢取女と吉原の太夫を比べたら後者の方が圧倒的に格上なわけだから、八五郎が平次に何かの皮肉だか謎掛けだかを言っているのでない限り、成り立ちそうもない。
むろんここはそんな場面ではないから、この「役不足」は本来の使い方である。
八五郎が、色男の自分にとっては、吉原の太夫は相応しいけれども、矢取女では役不足だ、矢取女なんかと言い交わしたりはしない、と(むろん本心ではなく軽口として)言っている場面なのである。

まぁ、そんなことは考えるまでもなく当たり前のことなのだが…。

附箋を剥がす 『銭形平次捕物控傑作選3』

これまで附箋を剥がすの通し番号を振っていたのだが、そもそもさして正確でもなし便利でもなし、面倒なので止めにする。

野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選3 八五郎子守唄』(文春文庫)より。

約束の年季を一年も過ぎ、古河の母からは矢の催促で、近ごろ年を取って、めっきり弱ったから、早く帰って顔を見せてくれと言われる度に、私は暇も金も下さらない主人を怨みました。とうとう我慢が出来なくなったのは、この出代り時の三月三日でございました」(「権八の罪」P24)


「出代り時」。「出替り時」とも書く。「出替り」は、奉公の年季が明けて交代すること。これは注記があった方が親切だろう。

こんな稼業の人間らしくもなく、少し頑固(かたくな)らしく見えるほど、実体な男です。(「二つの刺青」P89)


「かたくな」は悪い意味で使われることが多いように思うけれども、この「かたくな」は、マイナス表現ではない。

娘手品の親方は近江金十郎という五十男で、仲間では顔の通った方ですが、それよりも女房のお角は、名前の通り四角な顔と、恐ろしい勢いでまくしたてる塩辛声とで、東西両国の香具師仲間でも、一番煙たがられている四十女でした。(「二つの刺青」P91)


これまでも何度か取り上げている「両国」の事例。ほかにも、

――伊之助の父親の伊兵衛は、人並みすぐれた頑固者で、両国の手品の娘などを、跡取り息子の嫁にすることなどは、絶対に考えられないこと、――でも二人はどうしても別れられないこと――。(「二つの刺青」P96)

「大きな結改場というと、両国、浅草、深川の八幡様裏、神田明神様――はツイ鼻の先だし、あ、ありますよ、白山前の結改場、あの後ろの白山神社は、明暦の大火でそのままになっていたのを、今度公儀で御造営することになり、加藤遠江守様の御係りで、講義から金が五百両、檜五千本の寄付があり、今は造営の真っ最中」。(「八五郎子守唄」P207)

「どういたしまして、言い交わすところまでは行かなかったんで、――六年前の岡惚れ一人、両国の結改場で鳴らした、お半でしたよ」(「八五郎子守唄」P208)


など。ただ「両国」といった場合は、今の墨田区両国ではなく隅田川西岸を指している。

お玉の替玉を殺し、お関を危うくし、さらにお豊婆さんを殺した曲者は、いったい何を企み、何を仕出かそうとするのか。その見当も付かず、全く手を拱(こまぬ)いて、次に相手の討つ術を待っているほかはなかったのです。(「二つの刺青」(P99-100)


「こまぬく」の事例。

宇三郎は三杯家の跡取りがなくなると、昔の自分の差金で捨てさせた三杯家の娘を探させたのさ。娘手品師になっていると直ぐわかったが、お関とお玉が同じように綺麗で、ちょっと見当が付かない。そこで先ずなんとなく上品で美しいお玉に当たってみると、こいつはとんだ大伴の黒主で、すぐ宇三郎に喰い下がって、年の違いも忘れて妙な仲になってしまった。(「二つの刺青」P104)


「大伴の黒主」について、この書の注には以下のようにある。

平安時代前期の歌人。生没年不詳。六歌仙の一人に数えられる。猿丸太夫の子とも大友皇子の子孫ともいわれるが、信憑性は低い。説話等で小悪人として描かれることもある。(P247)


間違ってはいないのだが、この場面の注としては無駄だろう。『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』を出さなかったら、何のことだかさっぱり判らない。
なお、「しんぴょうせい」を変換したら、「信ぴょう性」が最初に出て来た。そんな変換、止めてくれ。

平次の問いは妙な方へ発展して行きます。それをうさんに見守る三輪の万七に平次はそっと囁きました。(「死の秘薬」P184)


「うさん」の事例。

「楊弓場の女だよ。矢取女にはずいぶん良い娘がいるから」
「それなら、知ってるのは五人や三人はありますが」
「言い交したのはなかったのか」
「お生憎で。ヘッ。吉原の太夫には、言い交したのが二、三人あるが、結改場(楊弓場)の矢取女じゃ、色男の方が役不足で」(「八五郎子守唄」P205)


ちょっと難しい「役不足」の事例。これについては改めて書く…かもしれない。昭和29年(1954)の作品。

古い本を調べますとね、乞食の犯罪、貧乏人の犯罪などはあまり罰されていない。高位高官のものの汚職の罪。こういうのは、死刑を課したものでした。(「『胡堂百話』より」P231)


「罰されて」。今なら普通は「罰せられて」か。

話が、またしても、古くなるが、明治十七年頃の新聞を見ると、「日本橋区××町に、××という米屋さんがござります。その米屋さんに昨日の朝……」といった調子で、社会面のニュースが書いてある。話す言葉と書く言葉の、これこそ完全な一致である。
ところがその後、美妙斎あたりが音頭を取って、原文一致運動が起こり、いわゆる口語体が生まれた。この口語体というのは、名前は言文一致でも、その実、日常の会話と異なり、口語体という一つの文章体なのだ。論より証拠、本当に話す口調で書いているのは、漫画の本か、童話くらいしかないではないか。(「『胡堂百話』より」P237)


胡堂の文章についての一家言。国語学のテキストには(ぼくの勉強不足もあるだろうが)見掛けない見解だけれども、成程、と思わせるものはある。

附箋を剥がす(その37)『銭形平次捕物控傑作選2』

野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選2』(文春文庫)より。

親分の銭形平次の名代で、東両国の伊勢辰で鱈腹飲んだ参会の帰り途、左手に折詰をブラ下げて、右手の爪楊子で高々と歯をせせりながら、鼻唄か何か唄いながら、両国橋へ差しかかったのは真夜中近い刻限でした。(「身投げする女」P7)


前回も取り上げた「両国」。平次の頃は隅田川の西岸が両国で、東岸を「東両国」と言った、その事例。
関連する事例として、下記のものもある。

赤い御神籤を取った怪しの男をつけて行くと、駒形から、お蔵前を、両国へ出て、本所へ渡って、深川へ廻って、永代を渡って築地へ抜けて、日本橋から神田へ、九段を登って、牛込へ出て、本郷から湯島へ来ると、日はトップリ暮れたというのです。(「第廿七吉」P232~233)


土地勘のある人には自明だけれども、東岸と西岸との往来の場合には、「渡って」と記されている。

「でも、私は親のない子で、叔父さん叔母さんに藁のうちから育てられました。この暮れのくり廻しが付かないから、吉原へ身を売れと言われると、いやとは申されません」(「身投げする女」P10)


「ラ抜き」ならぬ「a-r抜き」の事例。

鳥越の平助店は、袋小路の別世界を形成した、総後架の前の四軒長屋でした。(「身投げする女」P17)


「後架」は知っていても、「総後架」という言葉は知らなかった。長屋の共同便所のことだそうだ。

樫谷三七郎は舌鼓でも打ちたい様子でした。極度に掛り合いを恐れたその当時の群衆は、よしや、眼の前で人殺しがあったところで、黙って見て、黙って引揚げてしまったことでしょう。(「花見の仇討」P48)


「舌鼓」は現在ではもっぱら御馳走を食べた時に使われるけれども、こういう使い方もあったんだな。

しばらく間をおいて、佐野屋へ入った平次。
「今ここへお滝が入ったようだが――」
うさんな眼を店中に配りました。(「花見の仇討」P61)


「うさんくさい」は良く聴くけれども、「うさん」単独で使われることは、現在ではあまりないのではないか。「くさい」は「…の様子だ」ということを表わす接尾語だから、元々は単独で使われていても不思議ではない。

平次は豁然としました。一切の不可能を取払った後に残るものは、それがいちおう不可能に見えても、可能でなければなりません。(「花見の仇討」P68)


シャーロック・ホームズっぽいな、と思って抽いておく。むろんのこと胡堂はドイルの愛読者である。

八五郎はヒラリと身をひるがえすと、怪しの男が平内様の堂を離れるのと一緒でした。二人は仲見世の人混みの中を縫って、雷門の方へ泳いで行くのを、平次は何か覚束ない心持で見送っております。(「第廿七吉」P231)


「二人は仲見世の人混みの中を縫って、雷門の方へ泳いで行く」と「雷門の方へ泳いで行くのを、…見送っております」という二つの文が叙述観点の転換によって一文で表現されている。

一と昔前は、青酸加里と明記することさえ禁じられた時代がある。その頃の小説はいかに間の抜けたものだったか私が改めて書くまでもあるまい。小説にまたは新聞に青酸加里という文字を使わなかったところで、青酸加里の自殺や犯罪は減ったわけではなく、丑刻参りが唯一の殺人方法であったわけではない、随分可笑しな話である。(「銭形平次打明け話」P281)


表現の規制についての、さすが適切な意見。

附箋を剥がす(その36)『銭形平次捕物控傑作選1』

野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選1 金色の処女』(文春文庫)より。

「選」なのは少々残念だが、今でもこういうものが手に入るのはありがたい。
この本、丁寧に注が付いてはいるのだが、少々「?」な感がないではない。「老中」とか「南町奉行」とか「岡っ引」とか、銭形平次の読者には無用と思われるような注がある半面、かなりの知識を持っていなければ判らないようなことには触れられていなかったりする。そんなものも含めて…。

与力と岡っ引では、身分は霄壌の違いですが、何かしらこの二人には一脈相通ずる名人魂があったのです。(「金色の処女」P10)


「霄壌」は「てんち」。宛字には違いないけれども、なるほどな、と思う。

その平次が見限ったのですから、御薬園の塀の中の秘密は容易のことではありません。腹立ち紛れの弥造を拵えて、長い音羽の通りを、九丁目まで来ると、ハッと平次の足を止めたものがあります。(「金色の処女」P12)


「弥造」は、『新明解国語辞典』によれば、「弥蔵」を宛てて、「「ふところ手をして、 握りこぶしを乳のあたりで突き上げるようにしたかっこう」 の擬人化した古風な表現。 「—をきめ込む」」とある。
知らなくても何となく想像は付くだろうけれども、これは注があった方が親切だろう。

捕物の名人、銭形の平次と、その子分ガラッ八は、そんな無駄を言いながら、浜町河岸を両国の方へ歩いておりました。(お珊文身調べ、P34)


土地勘のない人には何の疑問も沸かないところだろうけれども、「浜町」は隅田川の西岸、「両国」は東岸にあるから、浜町河岸を歩いていても橋を渡らなければ両国には着かない…のが現在の地理なのだけれども、元々は、武蔵の国と下総の国を繋ぐ橋として架けられた両国橋の両岸を「両国」と称していたので、江戸時代の古地図には、西岸に「両国広小路」という記載がある。
Wikipediaによれば、元々は西岸が両国で、元禄(1688~1704)以降に東岸を「東両国」と呼ぶようになったという。
胡堂は同書に収められている「平次身の上話」の中で、平次を「元禄以前、寛文万治までさか上った時代の人」と書いている。
万治は1658~1561年、寛文は1661~1673年、どちらも元禄より前だから、この作品で「両国」といえば、隅田川西岸を指していることになる。
なお、無意味な揚げ足取り。
胡堂は「寛文万治」と書いているけれども、第1話「金色の処女」には将軍徳川家光が登場する。家光は1623~1651年に将軍職にあった。とすれば、平次は実際には「寛文万治」よりもっと以前から活躍していたことになる。
両国橋は万治2年に架けられているから、家光の頃には「両国」の地名はなかった。「金色の処女」と「お珊文身調べ」との間に8年以上の間があれば成り立つのだが…。
むろん、時代小説を読む時にそんなことを気にするのは野暮。寛永だろうが元禄だろうが、平次は変わらず31歳なのである。

「今日の行先を知っているだろうな」
「知りませんよ。いきなり親分が、サア行こう、サア行こう――て言うから跟いて来たんで、時分が時分だから、大方『百尺』でも奢ってくださるんでしょう」(お珊文身調べ、P35)


「百尺」というのは何かの食べ物か? と思って国語辞典の類を調べてみたが見当たらない。『日本国語大辞典』にも、「一尺の百倍。約三〇メートル。」とあるのみ。それもそのはず、「百尺」は店の名だった。
豊原国周の浮世絵に、「甚左衛門町百尺樓」というのがある。甚左衛門町は現在の人形町あたり。
こんな絵になっているくらいだから、高級な店なのだろう。ガラッ八は平次に、高級な料理を奢ってくれ、と軽口を叩いているのである。
こんなのは、注がなければ判らない。
余談だが、『日国』の「百尺」の項目には意味があるのだろうか。百尺が一尺の百倍なのは辞書を見るまでもない。「百尺の竿頭に一歩を進む」を説明するための項目だとしても、「百尺竿頭」も立項されているのだから、不要な気もする。

「やいやいこんな湯へ入られると思うか。風邪を引くじゃないか、馬鹿馬鹿しい。(「南蛮秘宝箋」P63)


「入られる」。現在なら「入れる」だな。

合間合間に風呂も焚かせられ、庭も掃かせられ、ボンヤリ突っ起っていると、使い走りもさせられる重宝な男です。(「南蛮秘宝箋」P75)


使役として現在なら「焚かされ」「掃かされ」だが、最後の「させられる」は何と言うだろう、と思ってメモしておいたのだが、改めて見てみると、可能のような気がする。

「黒助兄哥、済まねえが馬糧(まぐさ)の中を探さしたよ、――それから、相沢様、黒助には給金の残りもございましょう。五十両ばかり持たして、故郷へ帰してやっておくんなさいまし」
「――」
何という横着さ、半之丞が呆れて黙っていると、若い采女は手文庫の中から二十五両包を二つ出してポンと投りました。(「名馬罪あり」P131)


この「横着」の意味が判らなくて、辞書を引いた。
再び『新明解国語辞典』。
「仕事は積極的にしないで、 分け前だけは一人前に主張する様子 」。
「分け前」云々にはちょっと違和感もあるが…。それに、件の事例にもピンと来ない。
そういう時には『日本国語大辞典』を見てみる。
「①押しが強くずうずうしいこと。ずるいこと。また、そのさま。②怠けてすべきことをしないこと。また、そのさま」とあった。現在では専ら②の意味で使われていると思うけれども、平次のは①の意味ということ。

「どこへ行ったんだ」
「半刻(一時間)絶たないうちに帰ってくる、銅壺(どうこ)の湯を熱くしておけ――って」(「迷子札」P253)


「銅壺」が何だか判らなかったのだが、これは僕の知識不足。単純に銅で作った湯沸かしのこと。