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「眠られぬ」

いわゆる「ら抜き」ではないことばの例。

わしは自分の理論を皿の上に投げ、しりぞいて考えなおした。悪魔たちは、夜眠られぬ人々の魂から発する燃えるガスを、そして日中は古い罪科によって発するあの病的な熱を、ほしがっているのだ。
(レイ・ブラッドベリ『何かが道をやってくる』「2 追跡 40」。大久保康雄訳。創元推理文庫、1964年初版)


以前、「眠られた」のエントリで取り上げた芥川龍之介の『山鴫』が1921年(大正10)発表だから、大幅に下った年代のもの。それで、メモしておく。

断片(助動詞「なり」の識別)

古いメモ書きをそこはかとなく書き付ける。
そんなものは自分の中で温めていれば十分で、blogで公開する価値は皆無なのだけれども、10年以上も鞄の中に入りっぱなしのメモ書きが複数あるような為体だから、可視的な記録にしておかなければ思い出す機会もないだろう。
思い出さないようなのはそれまでのものということでもあろうけれども、とりあえず自分のためにだけ書き留めておく。そうしておけば、後で何かの役に立つかもしれない。むろん自分にだけ。

教科文法の常識、助動詞「なり」の識別。
終止形に接続するのは伝聞・推定、連体形に接続するのは断定である。
かの有名な土左日記の冒頭文の2例はどちらもサ変動詞「す」に接続しているから、「(す)なる」が伝聞推定、「(する)なり」が断定、と一目瞭然…に思ってしまうけれども、古代国語の動詞では、終止形と連体形が同形の四段活用が一番多いのだから、「(行く)なり」とか「(歌ふ)なり」とか、多くの場合には接続から判別することが不可能である。
判別できないものを判別の基準にするというのは、明らかに論理矛盾である。
例えば、「あなり」という表現がある。
「あなり」は動詞「あり」の撥音便「あん」に助動詞「なり」が付いたものだけれども、「ありなり」なら終止形接続だから伝聞・推定、「あるなり」なら連体形接続なら断定、ということになる。
それが撥音便で「あンなり」となり、表記としては「あなり」となるわけだけれども、これでは「あり」が終止形なのか連体形なのかが判らない。
「ありなり」とか「あるなり」とかであればどちらの意味かは判るけれども、「あなり」では判らない。意味が区別できなくなるように語形を変化させた、などということは、言語の運用上ありえない。
そもそも、どちらの意味だか判らないのなら、「なり」など付いていなくても同じである。
要は、接続で助動詞「なり」が識別できる、というのはまやかしだ、ということである。

考えてみたら、わざわざ「断片」と銘打たなくても、断片に過ぎないものは過去に幾らでもあった。でもまあいいか。

「公正と信義に信頼して」

少し日が経ってしまったけれども…。
5月11日付『産経新聞』一面の「産経抄」を読んで考えたこと。
同趣のことは何度か書いているので、簡略に。

抄氏は高校時代に御祖父君から『日本国憲法』の本を貰って読んだという。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」。周辺国を見渡して、そんな諸国民がどこにいるのかという当然の疑問はさておく。「公正と信義『に』信頼」との箇所は「を」が普通だろう。「昔はそういう言い方をしたのかしらん」と当時、首をひねるしかなかった。


そこからさらに、PHP研究所の江口克彦さんがFBに同じことを書いていた、石原慎太郎さんが…、櫻井よしこさんが…と同じようなことを発言していた人の名前が続く。
そして最後には、美しい日本語の憲法に改正したい、という主張に続く。
無料会員登録をすれば全文をWEB上で読めるらしいから、興味のある方はどうぞ。むろん僕はしていないが。

さて、「昔はそういう言い方をしたのかしらん」と首をひねった経験があるのなら、少しだけでも昔の言い方を調べてから物を言うべきではなかっただろうか。
主張はともかくとして、人の言ったことを何の検証もせずに鵜呑みにして、それを前提に物を言うのはいかがなものか。

安直にGoogle先生にお伺いしてみただけでもこんな文章が検索できる。

古田島洋介:「公正と信義〈に〉信頼して」は誤りか? --石原慎太郎氏の憲法前文修正案をめぐって--

著名な漢文学者の先生だからか漢文訓読体と短絡的に結び付けていること、甚だしく一般性に欠ける憾みのある資料を根拠に物を言っていることなど不満がなくもないのだけれども、江口さんたちの言っていることが、もしかしたら自明の前提となるほど正しいものだと即断はできないかもしれないという疑いの眼を持つのには十分だろう。

それで、実際に昔の言い方を調べてみると、

「お蓮は目を外らせた儘、膝の上の小犬にからかっていた。」(芥川龍之介『奇怪な再会』)

「かれらは容保に諌止するために騎馬をもって会津若松を出発し、夜を日についで江戸に入り、容保に拝謁した。」(司馬遼太郎『王城の護衛者』)


というような例がある。

もっと参考になるであろうものとしては、

「母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方が却って平気であった。」(夏目漱石『道草』)

「謙作達はこの一っこくのような所のある、勝気な看護婦に信頼していた。」(志賀直哉『暗夜行路』後篇)

「が、同時にわれわれは、漢字のこういう長所に信頼しすぎた結果、言葉は一つの符牒であると云うことを忘れて、強いて複雑多岐なる内容を、二字か三字の漢字の中へ盛り込もうとするようになりました。」(谷崎潤一郎『文章読本』)


のような、「信頼する」という動詞を使った「産婆〈に〉信頼」「看護婦〈に〉信頼」「長所〈に〉信頼」という例もある。
これらと「公正と信義〈に〉信頼」のどこに違いがあるというのだろうか。
芥川・司馬・漱石・志賀・谷崎…という歴とした日本人が、しかも極めて高度な国語力の持ち主たちが、こういう使い方をしているのである。彼らの使い方は正しくて日本国憲法の使い方は間違っているとは言えないだろう。

昭和21年の時点において、「公正と信義〈に〉信頼して」は、やや古めかしい言い方だった可能性もなくはないけれども、「正しい」日本語だったと思われる。
もちろん現代において、「〈に〉信頼」という言い方はまずしないとしても、今はそういう言い方はしない、ということと、日本語として間違っている、変だ、ということとは同じではない。

これからの憲法は新しい日本語で作ろう、と主張するのならともかく、間違ってもいないものを間違っていると強弁して、だから変えよう、と言うのでは、主張自体の信頼性を自ら低めることになっていると言わざるをえない。
これまでにも、石原さんのそういう発言を何度も紙上で目にしては来たけれども、それは石原さんの発言を産経新聞が報じていただけで、その主張するところが正しくても正しくなくても石原さんの責めに帰すべきものだけれども、今回の「産経抄」の記事は産経新聞としての主張だから、今までの報道とは性格が異なる。
政治家なら、プロパガンダのためにちょっとした誤魔化しや脚色をするのも手法の一つと言えるのかもしれないけれども、それを新聞が真似るべきではないだろうと思う。
過去の日本語を一方的に「変」と決めつけて美しい日本語の憲法に改正したいなどと言われても、到底腑に落ちない。

附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第2巻』)・その2

『芥川龍之介全集 第2巻』(岩波書店、昭和29年11月)の附箋を剥がす。その2。

いやさう云ふつもりぢやないです。――項羽はですな。項羽は、今日戦の始まる前に、二十八人の部下の前で『項羽を亡すものは天だ。人力の不足ではない。その証拠には、これだけの軍勢で、必漢の軍を三度破つて見せる』と云つたさうです。さうして、実際三度どころか、九度も戦つて勝つてゐるです。私に云はせると、それが卑怯だと思ふのですな、自分の失敗を天にかづける――天こそいい迷惑です。それも烏江を渡つて、江東の健児を糾合して、再び中原の鹿を争つた後でなら、仕方がないですよ。が、さうぢやない。立派に生きられる所を、死んでゐるです。一切を天命でごまかさうとする――それがいかんですな。英雄と云ふものは、そんなものぢやないと思ふです。簫丞相のやうな学者は、どう云はれるか知らんですが。(「英雄の器」P56)


「漢の大将呂馬通」の台詞。気にするようなことのないものも含まれるけれども、「です」を連発するのは、軍隊ことばを意識したものなのかもしれない。

市兵衛は、どう云ふ気か、すべて作者の名前を呼びすてにする習慣がある。馬琴はそれを聞く度に、自分も亦蔭では「馬琴が」と云はれる事だらうと思つた。この軽薄な、作者を自家の職人だと心得てゐる男の口から、呼びすてにされてまでも、原稿を書いてやる必要がどこにある?(「戯作三昧」P72)


その場にいない他人に対する態度にも、気を付ける必要があるという教訓。

仏参に行つた家族のものは、まだ帰つて来ない。内の中は(しん)としてゐる。彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸つた。さうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持つてゐる、或疑問を彷彿した。(「戯作三昧」P76)


この「森として」を見て、ふと、これが擬声語なのか、擬態語なのか、疑問に思った。むろん、「しーん」も同じ。
ごく軽く調べてみたら、どちらの説もあるらしい。そもそも、
「オノマトペ」と言ってしまえば簡単なのかもしれないけれども…。もっとも、そんな単純なものではないのだろうが…。

それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、何時も纏綿する疑問である。彼は昔から、「先王の道」を疑はなかつた。彼の小説は彼自身公言した如く、正に「先王の道」の芸術的表現である。だから、そこに矛盾はない。が、その「先王の道」が芸術に与へる価値と、彼の身上が芸術に与へようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。従つて彼の中にある、道徳家が前者を肯定すると共に、彼の中にある芸術家は当然又後者を肯定した。勿論此矛盾を切抜ける安価な妥協的思想もない事はない。実際彼は公衆に向つて此煮切らない調和説の背後に、彼の芸術家に対する曖昧な態度を隠さうとした事もある。
しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は戯作の価値を否定して「勧懲の具」と称しながら、常に彼の中に磅礴する芸術的環境に遭遇すると、忽ち不安を感じ出した。(「戯作三昧」P77)


いわゆる「ら抜き」――実際にはこの例のように「a-r抜き」――に関連して気になった。
「欺かれ」が2つ出て来るけれども、どちらも現在なら「欺けても」「欺けない」とすることが多いだろう。

馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤ひを帯びて輝き出した。(「戯作三昧」P78)


つい先日メモしたばかりなのだけれども、何で気になったのかが明確に思い出せない。
が、寒山拾得が出て来る場面で、芥川の他の作品の読みに連関する何かがふと心に思い浮かんだような気がするので、とりあえずメモだけは残しておく。

その間も茶の間の行燈のまはりでは、姑のお百と、嫁のお路とが、向ひ合つて縫物を続けてゐる。太郎はもう寝かせたのであらう。少し離れた所には尫弱らしい宗伯が、さつきから丸薬をまろめるのに忙しい。(「戯作三昧」P88)


これは何だったろう? 「尫弱」が気になったのかもしれない。

老紳士は一しきり濃い煙をパイプからあげながら、小さな眼でぢつと本間さんの顔を見た。今まで気がつかずにゐたが、これは気違ひの眼ではない。さうかと云つて、世間一般の平凡な眼とも違ふ。聡明な、それでゐてやさしみのある、始終何かに微笑を送つてゐるやうな、朗然とした眼である。(「西郷隆盛」P96)


「やさしみ」。
最近の若者言葉で「うれしみ」とか「やばみ」とか、何だかやたらに「み」を付けるのが気になって(マイナス表現ではない)いて、それとの関連で何か言えるかもしれないと思ってとりあえずメモしておいた。

君は僕の云ふ事を信ぜられない。いや弁解しなくつても、信ぜられないと云ふ事はわかつてゐる。しかし――しかしですね。何故君は西郷隆盛が、今日まで生きてゐると云ふ事を疑はれるのですか。(「西郷隆盛」P96)


「信ぜられない」が何となく気になった。後になるとさして気にはならないのだが、とりあえず残しておく。

しかし、一体君の信じたがつてゐる資料とは何か、それから先考へて見給へ。城山戦死説は暫く問題外にしても、凡そ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な資料などと云ふものは、どこにだつてありはしないです。誰でも或事実の記録をするには自然と自分でデイテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云ふ意味は、それだけでもう客観的の事実から遠ざかると云ふ事です。さうでせう。だから一見当になりさうで、実は甚当にならない。ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語つてゐる。あれは君も知つてゐるでせう。実際我々は目前の事さへわからない。(「西郷隆盛」P100~101)

狄青が五十里を追うて、大理に入つた時、敵の屍体を見ると、中に金龍の衣を着てゐるものがある。衆は皆これを智高だと云つたが、狄青は独り聞かなかつた。『安んぞその詐りにあらざるを知らんや。寧ろ智高を失ふとも、敢て朝廷を誣ひて功を貪らじ』これは道徳的に立派なばかりではない。心理に対する態度としても、望ましい語でせう。所が遺憾ながら、西南戦争当時、官軍を指揮した諸将軍は、これ程周密な思慮を欠いてゐた。そこで歴史までも『かも知れぬ』を『である』に置き換へてしまつたのです。(同P102)


歴史の研究においてだけではなく、須く銘記しておく必要がある。

本間さんは白葡萄酒の杯を勢よく飲み干すと、色の出た頰をおさへながら、突然、
「先生はスケプティツクですね。」と云つた。(「西郷隆盛」P103)


読む度に、「スケプティック」が気になって、何となく意味は判るけれどもはっきりとは判らずにいて、たまには調べてみるのだけれども都度忘れて毎回同じことを思うので、ここに記載しておく。懐疑論者。

馬の上から落ちた何小二は、全然正気を失つたのであらうか。成程創の痛みは、何時か殆、しなくなつた。…
では、何小二は、全然正気を失はずにゐたのであらうか。しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかつた色々なものが、影のやうに幾つとなく去来した。(「首が落ちた話」P100)


「全然―失う」「全然―失わず」と、ほとんど同じ否定と呼応する・呼応しない例が連続して出て来る例は珍しいのでは? 使いたい方、どうぞご随意に。

「『蜜柑』の謎あるいは横須賀線」補遺

かなり以前、「『蜜柑』の謎あるいは横須賀線」のエントリで、芥川龍之介の『蜜柑』に出て来る横須賀線の二等客車の座席がボックスシートではなくてロングシートだったことを書いて、文学作品を思い込みで読むのは禁物だということを述べた。

ここ暫く何度目かの芥川龍之介全集通読(途中)をしていて、これまで読み落としていたことがあるのに気づいた。
『蜜柑』なんて全集通読の時以外にも何度も読んでいるのに未だに気づきがあるのだから、何度読んでも面白い。
以下、引用は昭和29年発行の新書版全集第三巻による。

私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。(P95~96)


客車内にはほかに乗客がいないのに、「小娘」が「私」の「前の席」に坐るのは、ボックスシートならかなりおかしな状況ではあるものの、絶対にありえないことではない。横須賀線=ボックスシートという思い込みで読んでいたら、何とか屁理屈で辻褄を合せてしまうものである。
前のエントリで、「少女は汽車に乗り慣れていなくて不安だから、人のいる近くに坐ったのだ、と説明してくれた人がいたような気もする…」という書き方をしたけれども、これはその時ちょっと遠慮をしてそう言ったので、この説明をしてくれたのは、間違いなく中学校の時の国語の先生である。わざわざそんな説明をしてくれたくらいだから、その先生も、ボックスシートだと思って読んでいたのに違いない。

そして、「私」がボックスシートのどこに坐っていたかというと、通路側の座席である。それは、そう考えなければ、次の部分が説明できないからである。

それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けやうとしてゐる。(P97)


「私の隣」の座席で窓を開けようとしているのだから、そこが窓側なのは当然で、畢竟、「私」が坐っているのが通路側ということになる。

…のだけれども、実は、その直前にこんな描写があった。

この隧道の中の汽車とこの田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。(P96)


「私」は「窓枠に頭を靠せ」ていたのである。これは、ボックスシートでも、姿勢に多少の無理のある感はあるものの出来ないことはない。とはいえ、通路側の座席に坐っていたら、けっしてできないことである。「私」は窓側の座席に坐っているのでなければならない。
が、先の引用にある通り、「うつらうつら」していて「ふと」気づくと、「例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移し」ていたのである。その「私の隣」は、「私」が「うつらうつら」する前に坐っていたはずの窓側の座席である。「私」が夢遊病者でない限り、居眠りしている間に座席を移ることはできない。
さらに、「小娘」が座席を移ったことに、「私」は、「思はずあたりを見まは」して気づいたのである。ボックスシートのすぐ隣の座席に坐っていたとしたら、「あたりを見まは」すまでもなく気づくはずである。ロングシートの同じ側、しかも「隣」とはいえボックスシートの隣の座席ほど密着した位置関係ではないところだったから、「あたりを見まは」して気づいたのだろう。

要するに、横須賀線の「二等客車」がボックスシートでなかったことは、きちんと本文を読んでいたら、絶対に誤解するはずがないほど明瞭なことなのである。
いろいろな外部資料から、この当時の客車がロングシートだったことは確認できるはずだけれども、それ以前の問題として、まず「本文を読む」ことが大切だ、という当り前の話をしたに過ぎない。

附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第2巻』)・その1

『芥川龍之介全集 第2巻』(岩波書店、昭和29年11月)の附箋を剥がす。

上人、「御主御受難の砌は、エルサレムにゐられたか」(「さまよへる猶太人」P11)


「ゐられた」がちょっとだけ気になったのでメモしておいた。

さうして又、第一の私と、同じ姿勢を装つて居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顔も亦、私と同じだつた事でございませう。私はその時の私の心もちを、何と形容していゝかわかりません。私の周囲には大ぜいの人間が、しつきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、昼のやうな光を放つて居ります。云はゞ私の前後左右には、神秘と両立し難い一切の条件が備つてゐたとでも申しませうか。(「二つの手紙」P20)


芥川には珍しくないけれども、東京弁「しつきりなし」。

これは一月の十七日、丁度木曜日の正午近くの事でございます。その日私は学校に居りますと、突然旧友の一人が訪ねて参りましたので、幸午後からは授業の時間もございませんから、一しよに学校を出て、駿河台下の或カツフエへ飯を食ひに参りました。駿河台下には、御承知の通りあの四つ辻の近くに、大時計が一つございます。私は電車を降りる時に、ふとその時計の針が、十二時十五分を指してゐたのに気がつきました。その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもつた、鉛のやうな空を後にして、ぢつと動かずにゐるのが、何となく恐しいやうな気がしたのでございます。(「二つの手紙」P22)


読む度に、駿河台下の大時計って何だろう、「御承知の通り」と言うくらいだから有名なんだろうと思いつつ、毎回読んだ端から忘れてしまって調べたことがない。今回軽く調べても判らないので、備忘のために書き留めておく。

所で、意思の有無と申す事は、存外不確なものではございますまいか。成程、妻はドツペルゲンゲルを現さうとは、意志しなかつたのに相違ございません。しかし、私の事は始終念頭にあつたでございませう。或は私とどこかへ一しよに行く事を、望んで居つたかも知れません。これが妻のやうな素質を持つてゐるものに、ドツペルゲンゲルの出現を意志したと、同じやうな結果を齎すと云ふ事は、考へられない事でございませうか。少くとも私はさうありさうな事だと存じます。(「二つの手紙」P27~28)


「意志しない」「意志する」が気になったためのメモ。

どうか私の申上げた事を御信じ下さい。さうして、残酷な世間の迫害に苦しんでゐる、私たち夫婦に御同情下さい。私の同僚の一人は故に大きな声を出して、新聞に出てゐる貫通事件を、私の前で喋々して聞かせました。私の先輩の一人は、私に手紙をよこして、妻の不品行を諷すると同時に、それとなく離婚を進めてくれました。それから又、私の教へてゐる学生は、私の講義を真面目に聴かなくなつたばかりでなく、私の教室の黒板に、私と妻とのカリカテゥアを描いて、その下に「めでたしめでたし」と書いて置きました。(「二つの手紙」P29)


「故に」は「ことさらに」。

或者は、無名のはがきをよこして、妻を禽獣に比しました。或者は、宅の黒塀へ学生以上の手腕を揮つて、如何はしい書と文句とを書きました。さうして更に大胆なる或者は、私の邸内へ忍びこんで、妻と私とが夕飯を認めてゐる所を、窺ひに参りました。閣下、これが人間らしい行でございませうか。(「二つの手紙」P29)


「夕飯を認める」が珍しかったので。

(一しよに大学を出た親しい友だちの一人に、或夏の午後京浜電車の中で遇つたら、こんな話を聞かせられた。)(P44)

(ここまで話すと、電車が品川へ来た。自分は新橋で降りる体である。それを知つてゐる友だちは、語り完らない事を虞れるやうに、時々眼を窓の外へ投げながら、稍慌しい口調で、話つづけた。)(P49)

(二人の乗つてゐた電車は、この時、薄暮の新橋停車場へ着いた。)(P50)


「京浜電車」っていうのは京急のことかな、と一瞬思ったのだけれども、その後の「品川」「新橋(停車場)」からすれば、今の東海道線(京浜東北線)のことなのだろう。

この間、社の用でYへ行つた時の話だ。向うで宴会を開いて、僕を招待(せうだい)してくれた事がある。何しろYの事だから、床の間には石版摺りの乃木大将の掛物がかゝつてゐて、その前に造花の牡丹が生けてあると云ふ体裁だがね。夕方から雨がふつたのと、人数(にんず)も割に少かつたのとで、思つたより感じがよかつた。(「片恋」P44)


「招待」と「人数」のルビ。

さう話がわかつてゐれば、大に心づよい。どうせこれもその愚作中の愚作だよ。何しろお徳の口吻を真似ると、『まあ私の片恋つて云ふやうなものなんだからね。精々そのつもりで、聞いてくれ給へ。(「片恋」P46)


異質的な文体の融合。会話文から地の文(会話文に引用された会話文から会話文)に融合する事例。

ざつと十年ぶりで、恋人にめぐり遇つたんだ。向うは写真だから、変らなからうが、こつちはお徳が福龍になつてゐる。さう思へば、可哀さうだよ。(「片恋」P48)


「福龍」が判らなかったのでメモしておいた。調べてもいないのでまだ判らない。

盧生は、ぢれつたさうに呂翁の語を聞いてゐたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、かう云つた。
「夢だから、猶行きたいのです。あの夢のさめたやうに、この夢もさめる時が来るでせう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云へる程生きたいのです。あなたはさう思ひませんか。」(「黄梁夢」P54)


読む度何となく気になる一節。

(続く)

「王城の北」―附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)・続2

『芥川龍之介全集 第1巻』に関して、もう1題。

その時、王城の北、朱雀大路のはづれにある、羅生門のほとりには、時ならない弦打ちの音が、さながら蝙蝠の羽音のやうに、互に呼びつ答へつして、或は一人、或は三人、或は五人、或は八人、怪しげな出立をしたものゝ姿が、次第に何処からか、つどつて来た。(「偸盗」P244)


ここが気になるのは僕に知識・常識が欠如しているからなのだろうか?
羅生門が「朱雀大路のはづれ」にあるのはその通りだけれども、「王城の北」が腑に落ちない。
「王城」は、『日本国語大辞典』によれば、

①帝王の住む城。皇居。内裏。②都。帝都。


である。
念のため第二版を見ても、

①帝王の住む城。皇居。内裏。②皇居のある所。都。帝都。


と、ほぼ同じ。
更に念のため、芥川を読む上で非常に有用な(と、僕が考えている)『大言海』(冨山房)。

王者ノ宮城。帝王ノ宮居。都(ミヤコ)。


説明が古風なだけで、書かれていることは同じである。

この場合の「王城」が「皇居。内裏」「宮城」を指すわけではもちろんないので、「都」が該当する。

「都」…平安京の北、「朱雀大路のはづれ」にあるのは門は朱雀門である。
羅生門(羅城門)も「朱雀大路のはづれ」にあるけれども、平安京の最南端に当たる。

この部分には諸書に特段の注記も見当たらないし、最新の全集でも「改む」などとして「王城の南」とされていたりはしない。
こんなところに疑問を持っているのは僕だけ?

いつも通り、結論は、ない。

「犢もこれにくらべれば…」(その2)―附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)・続

犢もこれにくらべれば…」の続き。

「犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。」で間違いなさそうなのに、だらだらと書き連ねているのは以下の事情による。

僕が持っている『芥川龍之介全集』(岩波書店、昭和29年1月)には、書いた通り
「犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。」
とある。
ただ、岩波だけでも何度も全集を出しているので、図書館で見られる限り見てみた。

①『芥川龍之介全集 第二巻』角川書店 昭和43年1月
犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。

②『芥川龍之介全集 第一巻』筑摩書房 昭和46年3月
犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。

③『芥川龍之介全集 第一巻』岩波書店 1977年7月
犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、小さい事はあつても、大きい事はない。

④『芥川龍之介全集 第二巻』岩波書店 1995年12月
犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、小さい事はあつても、大きい事はない。


③④の本文が「小さい事はあつても、大きい事はない。」になっている。

岩波書店では、少なくとも1927年~、1934年~、1954年~、1977年~、1995年~の5回全集を出している。
僕の持っているのが1954年の新書版全集で、それは前に書いた通り「大きい事はあつても、小さい事はない。」になっているので、未確認ではあるけれどもそれ以前の全集は、それと同じだったろうと思われる。
1977年以降の全集③④で、本文が「小さい事はあつても、大きい事はない。」になっているのだけれども、それらの全集の「後記」には、底本に「大きい事はあつても、小さい事はない。」とあるとした上で、「改む。」と書かれている。
③の底本は1927年の、④の底本は1954年のものではないかと思われる。とすれば、それらの本文はいずれも「大きい事はあつても…」ということになる。
因みに、現行の岩波文庫(2002年10月改版)は、1995年版の全集を底本にしているから、「犢もこれにくらべれば、小さい事はあっても、大きい事はない。」とある。
これらから考えれば、芥川が書いた本文は、「大きい事はあつても…」で間違いない。

実は、馬上駿兵サンが『[文法]であじわう名文』を書いた時に、④の全集と新書版全集を見比べて、「小さい事はあつても、大きい事はない。」は誤植だと判断して「大きい事はあっても、小さい事はない。」の本文を採用した。論旨に支障はないとしても、軽慮だった憾みはある。

それはさておき、芥川自身は「偸盗」の出来が気に入らなかったらしく、生前に単行本に入れることがなかった。だから、「小さい事はあつても…」を「大きい事はあつても…」に書き直したりはしていない。
それが芥川の誤記だったのだとしても(そして恐らく誤記なのには違いないけれども)、没後に他人が書き換えるというのが正しいのかどうか、判断は難しい。
作家だって書き間違えることはあり、もし芥川が長生きして全集の編纂に関わったりしていたら自分で書き直していた可能性はある。そういう意味では芥川が意図していたであろう形に書き換えることは一概に誤りとも言い難い。
一方、誤りだったとしても芥川本人がそう書いたのだから、それこそが「正しい」本文だとする考え方にも、一理ある。

で、結局のところそれで何が言えるのかと言うと、現在、世上にある「偸盗」の本文には、ふた通りのものがある、というだけのことである。

「犢もこれにくらべれば…」―附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)・続

附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)」のエントリで、「もう少し気になったものもある」と書いた、その内の2つ、のうちの1つ。

が、相手の一人を殺し、一人を追払つた後で、犬だけなら、恐れる事もないと思つたのは、結局次郎の空だのみにすぎなかつた。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの逸物で、犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。それが皆、口のまはりを人間の血に濡らして、前に変らず彼の足下へ、左右から襲ひかゝつた。一頭の頤を蹴返すと、一頭が肩先へ踊りかゝる。それと同時に、一頭の牙が、すんでに太刀を持つた手を、噛まうとした。(「偸盗」P252)


問題は、「犢もこれにくらべれば、大きい事はあつても、小さい事はない。」である。
犢(こうし)と比べられているのだから、もちろん大きいという表現ではあるのだけれども、犢よりは小さいと言っているのだから、何だか中途半端な感はある。
手許にあるちくま文庫版『芥川龍之介全集』を見ても同じである。この文庫版全集は筑摩類聚全集を底本としているから、それも同じなのだろう。
国立国会図書館のデジタル資料で唯一館外閲覧のできた昭和3年刊岩波文庫も同じ。
安直に青空文庫を検索して見ても本文は同じ…と思ったら、僕の持っている全集を底本としている岩波文庫(昭和35年刊)を底本としていたから当然ではある。
文庫本をほかに1~2冊持っていたはずだけれども、どこかにしまい込んでしまったものか見つからないので、自宅に居ながらにして確認できる範囲では、「大きい事はあつても、小さい事はない」なのに違いない。
何となくもやもやした思いは残るものの、芥川がそう書いたのならどうにも致し方がない。

(続く)

附箋を剥がす(『芥川龍之介全集 第1巻』)・補遺

全集の第1巻を読み終わって第2巻に入ったのだけれども、本を開いたら前回読んだ時のメモが挟み込まれたままになっていた。
そのメモには、第1巻を読んだ時のものも含まれていたので、読む度に気になるところは変わるもんだな、と自分一人で面白かったので、それも転記しておく。

勿論、右の手では、赤く頬に膿を持つた大きな面皰を気にしながら、聞いてゐるのである。しかし、之を聞いてゐる中に、下人の心には、或勇気が生まれて来た。それは、さつき門の下で、この男には欠けてゐた勇気である。さうして、又さつきこの門の上へ上つて、この老婆を捕へた時の勇気とは、全然、反対な方向に動かうとする勇気である。下人は、飢死をするか盗人になるかに、迷わなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、飢死などと云ふ事は、殆、考へる事さへできない程、意識の外に追ひ出されてゐた。(「羅生門」P43)


この時には、「全然」ではなく「反対な」が気になったようだ。

酒虫と云ふ物が、どんな物だか、それが腹の中にゐなくなると、どうなるのだか、枕もとにある酒の瓶は、何にするつもりなのだか、それを知つてゐるのは、蛮僧の外に一人もない。かう云ふと、何も知らずに、炎天へ裸で出てゐる劉は、甚、迂闊なやうに思はれるが、普通の人間が、学校の教育などをうけるのも、実は大抵、これと同じやうな事をしてゐるのである。(「酒虫」P75)


だから何だ、ということもないのだけれども、何となく面白かった。

第三の答。酒虫は、劉の病でもなければ、劉の福でもない。劉は、昔から酒ばかり飲んでゐた。劉の一生から酒を除けば、後には、何も残らない。して見ると、劉は即酒虫、酒虫は即劉である。だから、劉が酒を去つたのは自ら己を殺したのも同然である。つまり、酒が飲めなくなつた日から、劉は劉にして、劉ではない。劉自身が既になくなつてゐたとしたら、昔日の劉の健康なり家産なりが、失はれたのも、至極、当然な話であらう。(「酒虫」P79)


「を」の使い方。

――有難うございます。が、今更、何と申しましても、かへらない事でございますから……
夫人は、心もち頭を下げた。晴々した顔には、依然として、ゆたかな微笑が、たたへてゐる。(「手巾」P122)


「…が、たたへて…」が気になってメモしておいた。

さうして、発作が甚しくなると、必ず左右の鬢の毛を、ふるへる両手で、かきむしり始める。――近習の者は、皆この鬢をかきむしるのを、彼の逆上した索引にした。さう云ふ時には、互に警しめ合つて、誰も彼の側へ近づくものがない。(「忠義」P175)


この「索引」の使い方、何時か使ってみたい。

自分の眼から見れば、今の修理も破魔弓こそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が絵解きをした絵本、自分が手をとつて習はせた難波津の歌、それから、自分が尾をつけた紙鳶(いかのぼり)――さう云ふ物も、まざまざと、自分の記憶には残つてゐる……(「忠義」P183)


かなの練習は、「難波津の歌」でする。平安朝以来の慣習。

今まで死んだやうになつてゐた女が、その時急に、黄いろくたるんだ眶をあけて、腐つた卵の白味のやうにな眼を、どんより空に据ゑながら、砂まぶれの指を一つぴくりとやると、声とも息ともわからないものが、干割れた脣の奥の方から、かすかに漏れて来たからである。(「偸盗」P218)


「砂まぶれ」が気になったためのメモ。

すると忽ち又、彼の脣を衝いて、なつかしい語が、漏れて来た。「弟」である。肉親の、忘れる事の出来ない「弟」である。太郎は、堅く手綱を握つた儘、血相を変へて歯噛みをした。この語の前には、一切の分別が眼底を払つて、消えてしまふ。弟か沙金かの、選択を強いられた訳ではない。直下にこの語が、電光の如く彼の心を打つたのである。(「偸盗」P264)


「直下」を「ぢきげ」と読むのは今ではあまりない気がする。

ほかにもあったのだが、何のためにメモしたのかまったく思い出せないものは省いた。
以上。