附箋を剥がす(その36)『銭形平次捕物控傑作選1』

野村胡堂『銭形平次捕物控傑作選1 金色の処女』(文春文庫)より。

「選」なのは少々残念だが、今でもこういうものが手に入るのはありがたい。
この本、丁寧に注が付いてはいるのだが、少々「?」な感がないではない。「老中」とか「南町奉行」とか「岡っ引」とか、銭形平次の読者には無用と思われるような注がある半面、かなりの知識を持っていなければ判らないようなことには触れられていなかったりする。そんなものも含めて…。

与力と岡っ引では、身分は霄壌の違いですが、何かしらこの二人には一脈相通ずる名人魂があったのです。(「金色の処女」P10)


「霄壌」は「てんち」。宛字には違いないけれども、なるほどな、と思う。

その平次が見限ったのですから、御薬園の塀の中の秘密は容易のことではありません。腹立ち紛れの弥造を拵えて、長い音羽の通りを、九丁目まで来ると、ハッと平次の足を止めたものがあります。(「金色の処女」P12)


「弥造」は、『新明解国語辞典』によれば、「弥蔵」を宛てて、「「ふところ手をして、 握りこぶしを乳のあたりで突き上げるようにしたかっこう」 の擬人化した古風な表現。 「—をきめ込む」」とある。
知らなくても何となく想像は付くだろうけれども、これは注があった方が親切だろう。

捕物の名人、銭形の平次と、その子分ガラッ八は、そんな無駄を言いながら、浜町河岸を両国の方へ歩いておりました。(お珊文身調べ、P34)


土地勘のない人には何の疑問も沸かないところだろうけれども、「浜町」は隅田川の西岸、「両国」は東岸にあるから、浜町河岸を歩いていても橋を渡らなければ両国には着かない…のが現在の地理なのだけれども、元々は、武蔵の国と下総の国を繋ぐ橋として架けられた両国橋の両岸を「両国」と称していたので、江戸時代の古地図には、西岸に「両国広小路」という記載がある。
Wikipediaによれば、元々は西岸が両国で、元禄(1688~1704)以降に東岸を「東両国」と呼ぶようになったという。
胡堂は同書に収められている「平次身の上話」の中で、平次を「元禄以前、寛文万治までさか上った時代の人」と書いている。
万治は1658~1561年、寛文は1661~1673年、どちらも元禄より前だから、この作品で「両国」といえば、隅田川西岸を指していることになる。
なお、無意味な揚げ足取り。
胡堂は「寛文万治」と書いているけれども、第1話「金色の処女」には将軍徳川家光が登場する。家光は1623~1651年に将軍職にあった。とすれば、平次は実際には「寛文万治」よりもっと以前から活躍していたことになる。
両国橋は万治2年に架けられているから、家光の頃には「両国」の地名はなかった。「金色の処女」と「お珊文身調べ」との間に8年以上の間があれば成り立つのだが…。
むろん、時代小説を読む時にそんなことを気にするのは野暮。寛永だろうが元禄だろうが、平次は変わらず31歳なのである。

「今日の行先を知っているだろうな」
「知りませんよ。いきなり親分が、サア行こう、サア行こう――て言うから跟いて来たんで、時分が時分だから、大方『百尺』でも奢ってくださるんでしょう」(お珊文身調べ、P35)


「百尺」というのは何かの食べ物か? と思って国語辞典の類を調べてみたが見当たらない。『日本国語大辞典』にも、「一尺の百倍。約三〇メートル。」とあるのみ。それもそのはず、「百尺」は店の名だった。
豊原国周の浮世絵に、「甚左衛門町百尺樓」というのがある。甚左衛門町は現在の人形町あたり。
こんな絵になっているくらいだから、高級な店なのだろう。ガラッ八は平次に、高級な料理を奢ってくれ、と軽口を叩いているのである。
こんなのは、注がなければ判らない。
余談だが、『日国』の「百尺」の項目には意味があるのだろうか。百尺が一尺の百倍なのは辞書を見るまでもない。「百尺の竿頭に一歩を進む」を説明するための項目だとしても、「百尺竿頭」も立項されているのだから、不要な気もする。

「やいやいこんな湯へ入られると思うか。風邪を引くじゃないか、馬鹿馬鹿しい。(「南蛮秘宝箋」P63)


「入られる」。現在なら「入れる」だな。

合間合間に風呂も焚かせられ、庭も掃かせられ、ボンヤリ突っ起っていると、使い走りもさせられる重宝な男です。(「南蛮秘宝箋」P75)


使役として現在なら「焚かされ」「掃かされ」だが、最後の「させられる」は何と言うだろう、と思ってメモしておいたのだが、改めて見てみると、可能のような気がする。

「黒助兄哥、済まねえが馬糧(まぐさ)の中を探さしたよ、――それから、相沢様、黒助には給金の残りもございましょう。五十両ばかり持たして、故郷へ帰してやっておくんなさいまし」
「――」
何という横着さ、半之丞が呆れて黙っていると、若い采女は手文庫の中から二十五両包を二つ出してポンと投りました。(「名馬罪あり」P131)


この「横着」の意味が判らなくて、辞書を引いた。
再び『新明解国語辞典』。
「仕事は積極的にしないで、 分け前だけは一人前に主張する様子 」。
「分け前」云々にはちょっと違和感もあるが…。それに、件の事例にもピンと来ない。
そういう時には『日本国語大辞典』を見てみる。
「①押しが強くずうずうしいこと。ずるいこと。また、そのさま。②怠けてすべきことをしないこと。また、そのさま」とあった。現在では専ら②の意味で使われていると思うけれども、平次のは①の意味ということ。

「どこへ行ったんだ」
「半刻(一時間)絶たないうちに帰ってくる、銅壺(どうこ)の湯を熱くしておけ――って」(「迷子札」P253)


「銅壺」が何だか判らなかったのだが、これは僕の知識不足。単純に銅で作った湯沸かしのこと。

附箋を剥がす(35)

毎日々々何だけれども、まだ続く、幸田文『ふるさと隅田川』(ちくま文庫)より。

方々の日傭とりに出て稼ぐのだが、そのをばさんはほかの日傭とりのをばさんたちと違つて、顔が陽に焼けていなくて白かつた。(「湿地」P128)


列叙接続の接続助詞「て」。

の漁を見に行くのである。東京から札幌・釧路・根室を経てノサップ岬を訪ね、北に進んで知床半島の漁場、羅臼といふ町へ行くのである。(「濡れた男」P149)


「しゃけ」はふつう、「鮭」を使うけれども、こんな字もあるんだな。

船がごめのそばを通ると、ごめはふはゝゝ浮いてゐるが、うす桃色の小さい脚がしきりに水を掻いてゐるのが透いて見えてゐる。かはいゝ。(「濡れた男」P160)


別に何ということもないのだけれども、「かはいゝ」という表記が何だか妙に可愛らしい感じがして、メモしておくことにした。SNSで使ったりしたら、存外流行るんじゃなかろうか。できれば句点付き「かはいゝ。」の形で。

さかなは暴れまへに食ひだめをしておいて安全な場処へ退避し、河水が気に入るやうに澄むのを待つて出て来る。だから暴れの最中とあとは釣れなくて、そのまへは釣れる。相当鉤の危険を経験してゐるはずの大魚でも、がめつて食はうとするのでついかゝつてしまふ。(「二百十日」P171)


「がめる」という動詞は知らなかったが、意味は、伝わって来る。

附箋を剥がす(34)

引き続き、幸田文『ふるさと隅田川』(ちくま文庫)より。

いまは専門にぞつき本を捌く処ができてゐるけれど、むかしはどうったのか。第一、いま云ふぞつきと同じ性質のものが同じ数量で、むかしもやはり出てゐたかどうか。本屋さんとは切つても切れない関係の、もの書きの子に育ちながら、気が働かないといふのはしかたがないもので、単行本にしろ雑誌にしろ古い本のことにしろ、まるで知らないで過ぎてきた。(「船内屋さん」P76)


「ぞっき本」ということばは、知らなかった。僕が学生の頃は、「B本」などと言っていた。今でいう「自由価格本」もその一種なのだろう。それらに比べて、そこはかとない風情がある。

こんなのもある。釣好きが夜釣をかけてゐると、河心を行く船があつて、艫には島田の女がすわつてゐるが、非常な美人なのでつい気を取られたら、不意にばたゝゝがしやゝゝとそこいらぢゆうが大騒ぎになつて、板子の下に活けてあつた魚はみな取られてしまつた、などといふたぐひである。(「あだな」P91)


再び、「河心」の例。

いままで何でもないことだつたものが急になぜだらうになつて、胸の途中にものが閊へたやうな気もちのまゝ、明けて行く河面を見てゐる新さんへ、なかまが集まつてきて乗合の楽しさが例の通りにひろげられて行つた。そしてやがて、おるいの「いつてらつしやいまし」に送られて乗りだして行つた。(「あだな」P99)


「『いつてらつしやいまし』という声に見送られて」あるいは「『いつてらつしやいまし』の声に見送られて」などというのがふつうの引用の仕方だろうが、そうではなくて、「『いつてらつしやいまし』見送られて」。文体の融合の事例。

けれどもおるいもさて新さんを呼んでみれば、さうしやきゝゝものを云つたのではなくて、やはり涙のはうが大部分で新さんをはらゝゝさせ、――自分がゐなくなつても何も心配なことはないが、たゞ夜のひきあげどきだけがなんとも気になつて、それを考へると死にたくないし、心配でゝゝどうしてみやうもない、ひとに頼んだつてそのことだけはどうにもならないけれどよろしく頼む、と云ふ。(「あだな」P103)


「夜のひきあげどき」ということばも、聞いたことがなかったのでメモしておいた。

おるいのことはおるいのことで、いつまでたつてもおるいのことなのだし、今日の生活は今日の生活だし、あとの人はあとの人だし、こぐらかるまいとしてゐた。(「あだな」P106)


これもあまり見たことがなかったので。’Tangled up in blue'~「ブルーにこぐらかって」…いや、これはさすがに「こんがらがって」の方が良いな。

彼はほんたうに、うちへ帰つてうちの飯を食つた。凶暴に食つた。鬱憤は吐きだされずに逆に胃へ押しこまれた。炊いたばかりの御飯はみんなになつて空のお櫃に茶碗と醤油さしが突つこまれて醤油はこぼれてゐた。工場へ半年行つて親を離れてゐたあひだに、彼の血はたぎることをおぼえ、人間がかはつたやうだつた。(「あだな」P117)


3点。
1.「みんなになる」。意味は容易に判るけれども、実例にお目に掛ったのは、あるいは初めてかもしれない。
2.たぶん僕以外誰も気になることのない箇所。「空のお櫃に茶碗と醤油さしが突つこまれ醤油はこぼれてゐた」…「て」の前後、ふつうなら条件接続で繋ぎたくなるところ、列叙接続が使われている。
3.「たぎることをおぼえ」の主語は「彼の血」なのだから、続く部分の主語も「彼の血」であるのがふつうなのだろうけれども、「人間がかはつたやうだつた」の主語は「彼」である。「彼の血はたぎることをおぼえ(た。彼は)人間がかはつたやうだつた」。それを1文で表現している叙述観点の転換の事例。

附箋を剥がす(33)

先日も取り上げた、幸田文『ふるさと隅田川』(ちくま文庫)より。

ちよつと見には水と闇は別ちがたく一帯に暗く、しかしよく見ると河心のあたりにはありとしもなく光が漂つてゐる。(「燈籠流し」P57)


「河心」ということばが目に付いたのでメモしておく。

水垢のついた古杭にならんで、新しい大小の塔婆が立てられ、枝つきのまゝの竹にはそまつな切子燈籠と樒が結ひつけられてゐる。(「せがき」P60)


「結びつけられて」ではなく「結ひつけられて」。語感が美しい。

水罰があたる」といういましめの言葉は、もうすっかり消えてしまったようである。私自身のことでいえば、今から五十年まえの、はたちの頃からきかなくなった。(「みずばち」P74)


「水罰(みずばち)」ということばは、確かに、聞いたことがない。が、魅力的なことばである。水を粗末にした時に言われる「おまえに水がこしらえられるか。」という叱りのことばも、趣深い。
ちなみに、この作品が発表されたのは1977年。その「五十年まえ」は、まだ昭和になったばかりの頃のことである。

附箋を剥がす(32) 「はららぐ」

幸田文『ふるさと隅田川』(ちくま文庫)より。
読み始めて最初に気になった一語。ある程度溜ってから書こうかとも思ったのだけれども、いつになるか判らないので、見つけ次第書くことにする。とすれば、「附箋を剥がす」でなく、「附箋を貼らない」と言うべきか。

それから二十何年後か後の初夏、まったく人気のない浅間山の中腹を登っていた。道がくのj字に折れる所へきて、折れてびっくり、声をあげた。狭い道の両側から卯の花と茨の花が、たわわに咲き重なって真っ白く、あたり一面が濃く匂って、森閑と静寂、とき折りひとりでに花ははららいでこぼれ落ちていた。(「川と山のにおい」P16)


「はらはら」の「はら」に接尾語「らぐ」が付いたもの。
「安らぐ」「薄らぐ」「和らぐ」など、「らぐ」の付く語はあるけれども、擬態語に付くのは珍しい気がする。

附箋を剥がす(31)Including 「全然」(その20)

先日必要があって……というほどの必要でもないけれども、獅子文六の『ちんちん電車』(河出文庫)を読み返していた。その附箋を剥がすためのメモ。
この作品、以前、いわゆる「ら抜き」の問題で、取り上げたことがあるものである。

その家は、吉原の有名な義士ファンの幇間(たいこもち)と、吉原芸妓の夫婦がやっていたというが、二人とも、もう、ジイさんバアさんだった。私たちは学校の帰りだから、店の中の椽台で食べたが、普通の客は座敷に通った。昔の汁粉屋の客は、皆、座敷へ上がったものだが、ここの座敷からは、すぐ、海が見渡された。品川の海が、まだ、高輪の岸を洗っていた時代である。(泉岳寺――北の辻。P44)


「ら抜き」(正しくは「a-r抜き」)があるかと思えば、逆に、現在では「見渡せる」がふつうのことばに「a-r」が入っている例もある。

札の辻の次は三田であるが、以前は、その停留所を薩摩原(サツマッパラ)と呼んだ。そのくせ、ここを終点とする電車は、三田行の札を掲げていたが、恐らく、字画が多くて書きにくかったからだろう。幕府時代に薩摩藩の屋敷があったから、その名が出たのだろうが、原という荒涼の感じは、、電車が開通しても、まだ残っていた。(芝浦。P52)


「サツマッパラ」に目が留まってメモしておいた。何故目に留まったかは、たぶん僕以外の人には理解できないので理由は書かずにおく。

その頃、この店はカキアゲといってもイカを使い、サシミもマグロでなくブリだったが、それはそれで、結構食べれた。そして、まだ親がかりの身だった私にも、そう懐の痛まぬ値段だった。(東京港――新橋。P66)


以前引いたもののほかにも、いわゆる「ら抜き」があった。

実は、最初の調査の時に、私は貸切り電車に乗って、ここを通ったのだが、とても街がよく見える。タキシやバスに乗っては、望まれないことである。それは前にも書いた。(新橋――銀座。P73)


「a-r」が入っている例。

銀座の柳というものに、私は一向に魅力を感じず、水もない街路に、あんな木を植えたって仕方がないと思うのだが、昔は松と桜の並木だったのを、なぜ柳にしたかというイワレは、あの出雲町の交番に、巡査が立っていて、夏の日のカンカン照りには可哀そうだというので、日影の多い柳の木を、鋼板の側に植えたのが、ハジマリだという。(新橋――銀座。P75)


助詞「を」が気になったのでメモしておく。

昔の銀座も、前に述べたように、飲食は栄えていたが、名も知れぬ店というのは一軒もなかった。誰もチャンと名を覚えていられるほど、有名店ばかりだった。(銀座――京橋。P83)


現在ではまったく違和感はないけれども「ら抜き」と言えば言えないことのない例。

昔の銀座に、スシ屋の目ぼしい店はなかったように思うが、今は東京一、日本一みたいなのがあるらしい。だが、私は行く気になれない。ベラボーに高いというからである。そして、高いのを喜んで集る客なぞと、同席する気になれない。そんな連中は、スシの代りに紙幣でも食ってればいい。スシなんてものは、普通に食べて、千円も払ってくればいいのである。その程度の食べ物である。食べ物にも、身分というものがある。身分をわきまえて、相当に食わせる店が、銀座に二、三軒ある。私が水準が高いというのは、そういう店があるからである。(銀座――京橋。P84)


単に、面白いな、と思っただけのもの。

ところで、突然に、あの近代的恐竜の出現である。よく思い切って、あんな工事ができたものと、感心するくらいだが、橋の存在は、全然無視されたから、今の状態になるのは、当然である。(日本橋。P96)


否定を伴わない「全然」の事例。

金港堂の方は、教科書出版だったから、あまり縁がなかったが、とにかく、有名な出版社が日本橋に多かったという過去に、興味を感じるのである。それは、昔日の日本橋が、東京のあらゆる一流的な企業を、吸い寄せ、その中心になってたことの証跡となるかも知れない。(続・日本橋。P105)


いろいろな言葉に「的」を付けてしまうのは日本語の造語力の強さを示しているけれども、「一流的」はあまり見慣れない例なのでメモしておく。

室町三丁目の電停附近を十軒店(じっけんだな)といい、人形やが沢山列んでたが、いつの昔か。三月と五月の節句人形の売出しの時には、電車の窓から、賑やかな彩りが見えた。年末になると、羽子板の市が立った。戦後、人形屋の一軒がゴルフ道具屋になったとか聞いたが、そのような転業のために、街の季節感は、もう味わわれなくなった。(神田から黒門町。P108)

ヤッチャ場は秋葉原へ移ったが、その殷賑の余曳が、まだ窺われないこともない。須田町附近が一つの盛り場として、面影を止めてることも、また、電車通りに、ベッタラ漬で有名な、中川屋という漬物や、ノレンの古い万惣という果物屋のあることも、ヤッチャ場との関係の名残だろう。(神田から黒門町。P109)


現在なら「a-r」抜きで「味わえなく」「窺えない」というところだろう。

私はこの稿を書くために、更めて浅草見物に出かけ、伝法院の中の幇間塚というものに感心したが、さらに、奥山の弁士塚の前に立って、実に、感慨無量だった。タヌキ塚とちがって、この方は碑も立派なものだが、刻まれた弁士の名を読むと、いちいち記憶が甦ってきて、その声まで、耳に聞えてくる。花井秀雄なんて名は全然忘れていたが、八字ヒゲの顔や、"不夜城の光景と相成りまァす"という、キネオラマの説明の文句まで、思い出して、わが年少の時代に、再会した想いがした。(六区今昔。P154)


否定を伴わない「全然」の事例、その2。

さて、そのキレイで巌丈な、耐火建築になった本堂だが、いつも、サイセン箱の前で、拝んで帰るだけなのを、今度は、浅草の顔役が案内してくれたお蔭で、内部に入ることができた。(観音堂と周辺。P160)


助詞「を」が気になったのでメモしておく、その2。

「起き上がって、見ると」

「走れメロス」を読んでいて、ここをメモっておこうと思った人はほかにあるまいけれども、気になってしまったのだから仕方がない。

ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろと起き上がって、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧いて出ているのである。(『走れメロス』新潮文庫、P177)


いいかげんに読んでいると、「潺々」なんていう耳慣れないことばが出て来ても、見逃してしまうものである。今まで意識した記憶がない。わざわざ調べなくても、おおよそ文脈から察しが付くからだろう。音「せんせん」、「水がさらさら流れる△様子 (音)」 の意の古風な表現。」(『新明解国語辞典』)。

それはともあれ、「起き上がって、見ると」である。「起き上がってみると」でないところがポイントで、接続助詞「て」の前後で、「起き上がる」と「見る」という別々の動作を表わしている。
このように、読点が打ってあり漢字が宛ててあれば誤解の余地がないけれども、古典の文では、こういう判断が難しい場合がある。けれども、古代語は近代語に比べて接続助詞「て」の前後を接続する力が強いから、「起き上がってみると」式ではなくて、「起き上がって、見ると」式と考えた方が良いものが多い。

たとえば、土左日記冒頭の「してみむとて、するなり」も、「書いてみようと思って」なのではなくて、「書いて(それを)見ようと思って」なのだと、僕は、考える。
そう考えると、掉尾の「とまれかうまれ、とくやりてむ」との呼応が見えて来る。書き了えて、読み返してみたら、不本意なものになっていた、だから、破ってしまおう、というのである。

「まにまに」

昨日も取り上げた『近代異妖篇 岡本綺堂読物集三』より。

普通の幽霊草といふのは曼珠沙華のことで、墓場などの暗い湿つぽいところに多く咲いてい(ママ)るので、幽霊草とか幽霊花とか云ふ名を附けられたのだが、こゝらで云ふ幽霊藻はまつたくそれとは別種のもので、水のまにゝゝ漂つてゐる一種の藻のやうな萍だ。(「水鬼」P77~78)


これ自体は何ということもないのだけれども、「まにまに」ということばを見ると、思い出すことがある。

長い学生時代の最後の頃だったか、ある先輩が、自身の師匠の論文(?)の校正をしていた。その文章が掲載される論集が、僕がアルバイトしていた出版社から出されるものだった関係で、その先輩が赤入れした校正刷りを見ることになった。
すると、源氏物語の浮舟が「波のまにまに漂って行く」というようなことが書かれていた箇所を、その先輩が「波のままに」に直しているのを見つけた。
「川の流れの」というような表現なら「ままに」でも良いかも知れないけれども、「波のまにまに」というのは小舟が波にもまれて行ったり来たりする様子を、2人の男の間で揺れ動く浮舟にたとえたものだろうから、それを「ままに」に直してしまったら台無しである。
執筆者の意図は明白で確かめるほどのことでもなく、校正者に断るのも先輩に対して語彙不足を指摘するようなのが憚られて、黙って最終校正を元の通り「まにまに」に戻して下版した。

ただそれだけのことなのだけれども、観点を変えれば、異文が生まれる原因の一つを、目の当たりにした瞬間だったと言えないこともない。

逆接の接続助詞「を」に関する断片語(3)

かなり以前、伊勢物語(第6段)にある下記の表現

女の、え得まじかりけるを、年を経て呼ばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。


の「年を経てよばひわたりけるを」について、これが「年を経てよばひわたりける(女)を」の謂で、「を」は接続助詞(逆接)ではなく、格助詞と見るべきことを書いた。

※「逆接の接続助詞「を」に関する断片語(1)(2)

先日、『近代異妖篇 岡本綺堂読物集三』(中公文庫)を読んでいて、こんな表現を見つけた。

むかしの旗本屋敷などには往々こんなことがあつたさうだが、その亡魂が祟をなして、兎もかくも一社の神として祭られてゐるのは少いやうだ。さう判つてみると、職人たちも少し気味が悪くなつた。しかし梶井の父といふのはいはゆる文明開化の人であつたから、たゞ一笑に付したばかりで、その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを、細君は女だけに先づ遮つた。それから社を取りくづすと、縁の下には一匹の灰色の蛇がわだかまつてゐて、人々があれゝゝと云ふうちに、たちまち藪のなかへ姿をかくしてしまつた。(「月の夜がたり」三、67~68頁)


「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを」の「を」である。この「を」に準体助詞「の」が上接することからも明らかなように、格助詞の「を」で、連用修飾を表わす。
件の勢語の「を」を、そういう表現だと考えるのである。

むろん勢語には、準体助詞「の」はない。が、近代語ではこういう場合に準体助詞が必須だけれども、古代語ではそうではない。
直前の「え得まじかりけるを」も、「え得まじかりける(の=女)を」ということで、準体助詞なしに、「え得まじかりける」を体言句にしている。綺堂の文と同じ事柄を表わすのに、古代語であれば、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたを」という類の言い方が、可能だったのである。

さて、綺堂の文の「しかし」以降の1文で、主語は「梶井の父」だけれども、文末「遮つた」は、その述語ではない。「遮つた」の主語は、言うまでもなく「細君」である。
この文は、「しかし梶井の父といふのは…その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとした」と、「焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを、細君は女だけに先づ遮つた」という別々の文としても表現しうるものを、1つの文に凝縮して表現しているのである。

勢語の文も、これと同じことが言える。
「女の、え得まじかりけるを、年を経て呼ばひわたりけり」と「年を経て呼ばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり」とが、1つの文に統合されているのである。

なお、綺堂の文を、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたけれども」と言い換えても、意味は、通じる。通じるけれども、むろんのこと、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを」とは、まったく別の表現である。
「年を経てよばひわたりけるを」を「言い寄り続けていたけれども」と逆接に訳出しうることと、この「を」が逆接であることとは、直接の関わりがない。そういう言い換えをしても、意味の疎通する訳文めいた別種の表現を、創り出せるに過ぎない。

附箋を剥がす(30)

『日影丈吉傑作館』(河出文庫)より。

駅の近くの市場の前で、わたしは宮の妻君に別れ、病院に引返した。その短い時間、いっしょにいるのが堪えられないほど、わたしは女を気の毒に思った。(「ねじれた輪」P107)


「妻君」は宛て字だろうが、判りやすい。それはそれとして、過去何度か取り上げた「に」の使い方。

ふいに幸運に眼がくらんだような気持も手伝って、洲ノ木はその晩ひどく酔っぱらい、川本に明日を約して別れてから、やっとの思いで家に辿りついた 。が、目のさめた昨日の今朝は、川本という男が酔ったまぎれに幡随院をきめこんだのを真に受けて、ありがた涙をこぼさんばかりだった、彼の単純さが腹立たしくさえなった。(「吉備津の釜」P139~140)


烏森の飲み屋で偶々同席した男(川本)から就職の世話をするという話をされた次の日の場面。
「幡随院をきめこむ」なんていうことばを目にしたことがなかった。辞書を引いても出て来ない。……が、考えてみたら、幡随院長兵衛は口入れ屋だった。

「やっぱり、ぼくが秘密のミッションを背負いこむことになったな」と、豊岡は愉快そうに笑いながら、いった。
「うちの会社が東南亜に得意先をつくりだした時から、そうなるくさいとは思ってたんだが」(「消えた家」P161)


「……くさい」ということばは、特別珍しいものではない。

(接尾語的に用いて)〔(ア)省略〕 (イ)いかにもそれらしい。「バター」(=西洋風だ)」 (ウ)その程度がひどい。「めんどう―」(『旺文社国語辞典』)


『新明解国語辞典』をみると、「……くさい」の前に来る語は、古い版には「形容動詞の語幹」とあり、最近の版にはそれに「体言またはそれに準ずる句」が加えられている。「うそくさい」とか「ばかくさい」とか。
「そうなる」というようなことばが前に来るのは、あまり見たことがない。

大学を出て、親父さんの自動車修理工場の見習いをしてた友人を、一度そこへ連れてゆくと、すっかり料理が気に入り、それから何度かいっしょに行った。(「夢ばか」P190)

私の家があったのは東京のはじっこの町である。そこには、くねくねと曲った舗装のしてない道路を中心に、 平家か二階建ての家が押しならんで、それよりも高い家は一軒もなかった。(「泥汽車」 P229)


著者は 明治41年生まれ。「…ている」「…ていない」ではないことばを使っているのは、珍しいのではないかと思って抽いておいた。

「まったく、顔を見合わす、というのは、ふしぎなことです」と、竪野はうなずきながら訥々とこたえた。(「人形つかい」P193)


形容詞の丁寧な表現の作り方の事例。


球は家にいた。勤めているあいだは、勤め先の秘密にわたるような話はできなかろうが、やめてしまえば、もう義理にしばられる気にもならないだろうと考え、吾来は何か聞きだすつもりで来たのだが、多少は目的を達しられた。(「明治吸血鬼」P281)


「達しられた」が気になった。
「られる」が付いているからには「達し」 は未然形だから、上一段型に活用する「達しる」という動詞かもしれない、コレは発見か? と思って『日本国語大辞典』を引いたらふつうに載っていた。

たっしる【達】〔自他サ上二〕(サ変動詞「たっする(達)」の上一段化したもの)「たっする(達)」に同じ。


が、載せられていた用例は未然形のもの。上二段活用と認定するためにはそれ以外の活用形もなければならない、と思って青空文庫を検索したら、幾つも出て来た。
梶井基次郎「交尾」から、一例を、孫引きする。

その声は瀬をどよもして響いていた。遠くの方から風の渡るように響いて来る。それは近くの瀬の波頭の間から高まって来て、眼の下の一団で高潮に達しる


何とういうことはない。