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訃報202001

渋沢栄一のひ孫、国文学者の岩佐美代子さん死去

国文学者で鶴見大名誉教授の岩佐美代子(いわさ・みよこ)さんが17日、肺炎のため神奈川県綾瀬市内の病院で死去した。93歳だった。喪主は長男、泉(いずみ)氏。

 民法学者、穂積重遠の娘として生まれた。渋沢栄一のひ孫にあたる。女子学習院高等科卒。昭和天皇の長女、照宮さまの学友を務めた。結婚後、家庭に入ったが、照宮さまが35歳で逝去したのを機に、国文学の研究を再開した。

 中世の和歌、女流日記を研究。北朝第一代の天皇の和歌集に収められた全ての和歌に注釈を付けた「光厳院御集全釈」で2001年、読売文学賞を受賞した。他の著書に「内親王ものがたり」「宮廷文学のひそかな楽しみ」など。(読売新聞オンライン)


「渋沢栄一の…」は知らなかった。
本質的には、あまり意味はないけど…。

「大師橋」

京急線6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更します

京浜急行電鉄株式会社(本社:横浜市西区、社長:原田 一之、以下 京急電鉄)では、6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更いたします。

これは、創立120周年記念事業として、沿線地域の活性化に繋げることを目的に、町名、地域シンボルおよびお客さまの利便性等を総合的に判断し、「産業道路駅」「花月園前駅」「仲木戸駅」「新逗子駅」の4駅の駅名を変更するものです。

また、羽田空港国際線旅客ターミナル等の名称変更に伴い、「羽田空港国際線ターミナル駅」「羽田空港国内線ターミナル駅」も同日に、駅名を変更いたします。(京浜急行電鉄)


…だそうだ。

「仲木戸」などという古い風情のある呼び名が変ってしまうのは残念な気がするけれども、京浜東北線の東神奈川駅に乗り換えられることが判りにくいということなので、実用的には致し方ないのかもしれない。

半面、「花月総持寺」は、無くなって久しい花月園の名を残しているのが奥ゆかしい。もっとも、突如「総持寺」駅になったらどこだか判らなくなる人も多いだろうけれど。

「逗子・葉山」と言っても、鉄道駅としては最寄りだとしても、そこで降りたら葉山だ、というわけではなく、「清澄白河」や「牛込神楽坂」とは少々わけが違うから、微妙な気がしなくもない。

「大師橋」は何となく良い感じなのではないか? 普段利用している人がどう思うか判らないけど。

羽田空港の2駅は、空港のターミナル名称が変るのだから、改名して当然。

僕が昔良く利用していた「六浦」駅は、古い地名を駅名にしているから、変って欲しくないと思う。もっとも、辺りにこれと言ったものもないから、変えようがないだろうが…。
[ 2020/01/12 01:12 ] 旅・散策 京浜急行 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

子(干支)

すっかり忘れていたけれど、今年の賀状に使った写真。
鏡開きだから、すれすれ正月気分でも良いだろう。

ほかのものを撮りに行く時間もなかったので、昔々大昔に撮った写真でお茶を濁した。
大豊神社(京都市左京区)の狛鼠。

子

(Canon EOS20D + EF17-40mm F4L USM)

[ 2020/01/11 11:11 ] 自然・季節 風物詩 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「眠られぬ」

いわゆる「ら抜き」ではないことばの例。

わしは自分の理論を皿の上に投げ、しりぞいて考えなおした。悪魔たちは、夜眠られぬ人々の魂から発する燃えるガスを、そして日中は古い罪科によって発するあの病的な熱を、ほしがっているのだ。
(レイ・ブラッドベリ『何かが道をやってくる』「2 追跡 40」。大久保康雄訳。創元推理文庫、1964年初版)


以前、「眠られた」のエントリで取り上げた芥川龍之介の『山鴫』が1921年(大正10)発表だから、大幅に下った年代のもの。それで、メモしておく。

断片(助動詞「なり」の識別)

古いメモ書きをそこはかとなく書き付ける。
そんなものは自分の中で温めていれば十分で、blogで公開する価値は皆無なのだけれども、10年以上も鞄の中に入りっぱなしのメモ書きが複数あるような為体だから、可視的な記録にしておかなければ思い出す機会もないだろう。
思い出さないようなのはそれまでのものということでもあろうけれども、とりあえず自分のためにだけ書き留めておく。そうしておけば、後で何かの役に立つかもしれない。むろん自分にだけ。

教科文法の常識、助動詞「なり」の識別。
終止形に接続するのは伝聞・推定、連体形に接続するのは断定である。
かの有名な土左日記の冒頭文の2例はどちらもサ変動詞「す」に接続しているから、「(す)なる」が伝聞推定、「(する)なり」が断定、と一目瞭然…に思ってしまうけれども、古代国語の動詞では、終止形と連体形が同形の四段活用が一番多いのだから、「(行く)なり」とか「(歌ふ)なり」とか、多くの場合には接続から判別することが不可能である。
判別できないものを判別の基準にするというのは、明らかに論理矛盾である。
例えば、「あなり」という表現がある。
「あなり」は動詞「あり」の撥音便「あん」に助動詞「なり」が付いたものだけれども、「ありなり」なら終止形接続だから伝聞・推定、「あるなり」なら連体形接続なら断定、ということになる。
それが撥音便で「あンなり」となり、表記としては「あなり」となるわけだけれども、これでは「あり」が終止形なのか連体形なのかが判らない。
「ありなり」とか「あるなり」とかであればどちらの意味かは判るけれども、「あなり」では判らない。意味が区別できなくなるように語形を変化させた、などということは、言語の運用上ありえない。
そもそも、どちらの意味だか判らないのなら、「なり」など付いていなくても同じである。
要は、接続で助動詞「なり」が識別できる、というのはまやかしだ、ということである。

考えてみたら、わざわざ「断片」と銘打たなくても、断片に過ぎないものは過去に幾らでもあった。でもまあいいか。